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 別なる意識が胎動する。

 決して産まれてはならない存在が、俺の中で、俺を喰らっている。
 徐々に徐々に。
 毛虫が葉を喰うように。

 その意識を、強かにしていく。

 もうどうすることも出来なかった。
 身体の支配権はとうに失い、新たな支配者の目覚めを待っている。

 これは、俺の身体だ。俺はお前の存在を許していない。
 いや、世界そのものがお前の覚醒を拒んでいるのだ。

 目覚めるな。

 目覚めるな。

 目覚めるな。

 強く思っても、無駄なこと。
 これは最初から決まっていたことなのだ。
 彼女の為に器に異常をきたし、幾つもの意識を保有し、育む身体となった。
 更には支配する新たな意識の為に身体は性別体型問わず変形可能でもある。

 人間として産まれた筈だのに、産まれた時から人間ではなかった。

 くそ……っ。
 悪態を声にすることすらもう、己に許されない。

 こうなりたくはなかった。

 主に死ぬまで付き従い続けると決めた……心から願った生き方を全うすることすら出来ない傀儡になる為のだけの人生。
 なんて、虚しく、悔しい人生だ。
 俺はこんなことの為に産まれたのではなかった。

 悔しい。
 腹立たしい!

 同時に、結局抗いきれなかった我が身を情けないとも思う。

 実の兄のように、二人目の父のように慕っていた、己の中の三人目の人格は、言った。
 邪に負けるなと。
 《彼女》の意識に打ち勝てば、或いは奪われずに済むかもしれない――――。

 自分は、負けた。
 かの意識に勝てなかった。

 情けない。

 彼女が嘲笑っているのが分かる。勝者の余裕である。

 嗚呼、俺はこのまま消えて逝くのか。
 嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 騒ぎ立てる生存欲はしかしどうすることも出来ない。
 すでにこの身体は、誰のものでもないのだから。


『諦めるな』


 彼は言う。
 だがもうどうすることも出来ないのだ。

 夏侯惇殿に追いつきたかった。
 曹操様に認めてもらいたかった。

 嗚呼、思い出される。
 俺がまだ将来に希望を持っていた頃の記憶。

 戻りたい。
 あの頃に戻ってもう一度やり直したい。
 やり直したって同じ結果になることは分かり切っている。
 無駄な足掻きだ。

 でも、それでも――――!

 嗤(わら)い声が聞こえる。


『哀れな子……諦めぬが故に、無用な苦痛が降りかかるのだ』


 分かっている……分かっている!
 諦めたくはなかった。
 今でもそう。
 諦めたくないと言う願望は、僅かにくすぶっている。

 俺だってもう、どうしようもないと理解している。
 お前だって、確信しているから嗤っていられるのだろう。

 ならばせめて思い願うことだけは許したって良いだろう?

 消えるその時まで。


 声は、また嗤う。



‡‡‡




 李典が昏睡状態となり、一向に目覚めない。
 伝染病の可能性を考慮して隔離された天幕の粗末な寝台の上で、急速に窶(やつ)れていると軍医は言う。

 彼が一体何の病気を罹患(りかん)したのか判然としない。
 似たような症状の病に効く薬を投与しても望める効果は無く。

 ただただ指を銜えて李典の死を待たねばならないのか?

 決戦を控えた身でなければ、すぐにでも名医と言う名医を呼び出して助けてやりたい――――それが、夏侯惇の正直な心情である。

 知勇を兼ね備えた彼を見出したのは夏侯惇だ。
 李典は、将来期待出来る逸材。曹操の為にも絶対に亡くしたくない。

 それに……夏侯惇自身、己の願い、目標に常に真っ直ぐな李典の性格を好ましく思っている。
 夏侯淵も李典のことは気に入っており、彼もまた、案じている。


「兄者……李典の容態は?」


 軍医のもとから戻ってきた夏侯惇に、夏侯淵が不安げに瞳を揺らしながら歩み寄ってくる。
 夏侯惇の顔色から察しがつこうものだが、敢えて訊ねてくるのは、希望を捨てきれないからだ。
 その気持ちが分からないではない夏侯惇もまた、心の中に僅かばかりの望みがある。

 大丈夫。
 李典ならきっとそのうち快復して、自分達と肩を並べられる武将になる筈だ。
 そう思って、俺はあいつを曹操様に引き合わせたのだ。

 こんなところで死んで良い奴ではないのだ!

 奥歯を噛み締める。

――――と、そこで夏侯淵があっと声を上げた。


「兄者、あれを……」

「……あの娘か」


 二人の視線の先には、船を堂々と歩き回る少女がいる。

 封統……狐狸一族に属する十三支と人間の混血の娘である。

 人間も十三支も嫌う彼女は、狐狸一族がどちらにも協力しているのが心底気に食わないらしく、曹操軍を勝たせようと長に無断でこちら側についた。その割に堂々と前線にも立つところを見ると、この行動を咎められない自信があるようだ。

 この戦が終わり、狐狸一族が人の世から離れれば、そこで封統は曹操軍から消える。以降、関わることは絶対に無い。

 曹操や、武将、軍師達の前で傲岸不遜に言い放った封統の知謀は、夏侯惇すら舌を巻く程緻密で、徹頭徹尾容赦が無かった。
 賈栩達軍師が仕掛けた意地の悪い質問にも水が流れるようにすらすらと答え、更に過去の戦で用いられた策を批判し、彼らを予想以上に頭が悪いと酷評した。

 人間達の顰蹙(ひんしゅく)などものともしない封統を、夏侯惇も疎ましく思う。

 けども。

 不慣れな船上では、自分達の武力は格段に下がっている。
 蔡瑁らは処刑され、水軍の鍛錬を担える者は、病床の李典のみだ。積極的に彼らに水軍について学んでいた彼を除いて水軍の戦法に明るい者は無い。

 本来の力を発揮する為には封統の存在は非常に有り難いものだった。
 実際、船の上の生活が堪えていた夏侯惇も、今はだいぶ回復している。封統の献策のお陰なのである。

 それに、封統も基本誰とも接触したがらない。曹操にのみ策を授ける。
 後はその様を奇術を使って空から眺めるだけ。何か問題があれば曹操に言う。
 無論、こちらから接触する必要も無いから、汚らわしい十三支の血をその身に流す娘が視界に入ることさえ我慢すれば、どうということは無い。

 ここは、耐えるが良策。
 全ては勝利の為。曹操の覇道の為。
 彼女の参入が告げられてから、ずっと己に言い聞かせてきた。

 封統は、連結させた船を確認しているようだ。連結部分に触れ、状態を入念に確かめる。
 その隻眼は真剣だ。
 だが……本当にそうなのか?
 封統と言う娘の真意は別のところにあるのでは?
 狐狸一族の罠ではないのか?
 疑念は尽きない。

 尽きないが、曹操が登用を決めた以上は逆らう訳にはいかぬ。

 李典のことも悩ましいが、あの封統の存在も頭が痛い。
 ……結果的に、良い方向へ向かうと良いが……。


「兄者。あの十三支は、本当にこの戦限りなんだよな」

「ああ。本人がそう言っている。あいつの目的は狐狸一族を十三支からも人間からも引き剥がすことだ。……だからと言って、信用に値するかは、分からんがな」

「オレは信用出来ないが……」

「俺もだ。だが曹操様はあいつの才能を買っている。実際、認めたくはないが、賈栩達の提示したあらゆる戦場の状況に従って披露した策はどれも見事としか言えん。勝つ為、この時限りと我慢する他あるまい」


 その時、ふと心の中でよぎった。
 封統ではなく、幽谷であれば良かったのにと――――。
 胸が疼いた。

 しかし、気付かぬフリしてきびすを返した。


「……夏侯淵。鍛錬に付き合ってくれ」

「ああ、分かった。オレも丁度鍛錬をしたいと思ってたところだ。李典が復帰した時笑われたくないからな」


 希望を捨てない夏侯淵に、夏侯惇は口元を綻ばせるのだった。



 胸は未だ、疼いている。



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