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 周泰を隣に、周瑜を後ろに従え、孫権は長江に整然と並ぶ船上を堂々と歩く。

 その姿に、兵士の誰もが目を向け、我知らず笑みを浮かべた。


「お……おお! 孫権様だ……」

「孫権様が、自ら前線に来られるなんて……」


 すぐに、孫権を讃える喚声が上がり、声と共に熱気が孫権のもとへまるで怒濤のように押し寄せた。

 これに、周瑜は喜んだ。


「やっぱ、君主が前線にいると士気が違うな!」

「……そうか。役に立ててよかった」

「もっとも、まだ十分ってわけではないけどな。最悪の状態から、少し持ち直した程度だ」


 孫権は彼らを見渡し、頷いた。
 対岸に布陣する曹操軍を見つめた。


「そのようだな。あれが……曹操軍か」

「ああ。対岸にこれ見よがしに旗をたててやがる」

「すさまじい数だ」

「まったくだ。兵数は八十万。十六倍の兵力差だな」


 孫権は周瑜の言葉を反芻し、目を伏せた。

 と、そこで周泰が後方から歩いてくる気配を捉え、拱手した後孫権を呼んだ。

 孫尚香である。
 後ろには恒浪牙がいる。
 周瑜が幽谷の所在を恒浪牙に訊ねるも、恒浪牙は薄ら寒い微笑みを浮かべて黙殺した。

 尚香は孫権に歩み寄る。


「お兄様……」

「尚香か」

「驚きました……。お兄様が前線にまで出てくるなんて……」


 でもよかった。
 尚香は笑い、軍の士気が上がることを喜んだ。

 孫権の表情は凪いだままだ。


「だといいが。それよりも、尚香。お前は本当によかったのか?」

「何のことでしょうか?」

「劉備殿との結婚だ。今からでも、取りやめてもよい。そうすれば同盟も……」


 孫権としては、妹を思う兄としての言葉だった。
 けれども尚香は気色ばんだ。


「何を言うのですか……! 私は、絶対に劉備様と結婚します。それこそが、私の望み……。それだけが、私の幸せなのです……!」

「尚香……」

「私の結婚のことで、思い悩まれる必要なんてありません……それに、本当は私の結婚で悩んでいるわけではないでしょう?」


 お兄様は、ただ負けるのが怖いのです。
 尚香は断じる。

 周瑜や周泰が眉間に皺を寄せる。

 恒浪牙の笑みも、ほんの一瞬崩れた。


「私はお前の結婚についてもちゃんと悩んでいる。お前が幸せになれるのであれば、それでいい。父と兄を相次いで亡くした。私たちはもう、二人きりの家族。お前の幸せを願うのは当然だ。だが、同盟についてはまた別の話。曹操に負ければ、同盟を組んでも意味がない」

「負けると決まったわけではありません……。そうでしょう、周瑜?」


 尚香の挑むような眼差しには、やはり違和感が否めない。
 まだ頭に後遺症が残っているのか……?
 恒浪牙に視線で問うも、彼の笑みは追求を許さない。

 人間の医者とは比べるべくもない有能な腕を持つ彼は、天仙で、狐狸一族の長甘寧の名の夫だと言う。
 あまり気に障ることは出来ない、か……。
 周瑜は恒浪牙から視線を逸らした。


「……まあ、そうだな。勝ち目が全くないとも思ってない」

「そうなのか?」


 周瑜は首肯する。


「この土地は、オレたちの庭だ。オレたちの水軍は、長江での戦いに慣れてる。対して、曹操軍の連中は船に慣れてない。おまけに河北や荊州の兵もかき集めてる。つまるところ、烏合の衆ってやつだ」

「だが、それでも十六倍の差は大きすぎる」

「まあな。決定打がないっていうのも事実だ。特に、兵の士気がな……士気が低ければ、兵の動きもにぶるし、逃げだすことだってあるからな」


 孫権は沈黙する。


「……だが、甘寧が裏で曹操軍に罠を仕掛けている。蒋欽に確認してみたが、狐狸一族の士気は変わらず高いまま、狐狸一族だけで曹操軍の士気を下げるべく奇襲をしても良いとのことだったが」

「狐狸一族は信用出来ない」


 周瑜の言葉は鋭かった。
 周泰が眉間に皺を寄せるのも構わず、


「言っただろう。甘寧は気まぐれは予想が出来ない。いつ、どんな心変わりをするか。甘寧は幽谷可愛さに掌を返しかねない奴だ」

「……」


 頑なに狐狸一族に頼ることを危険視する周瑜は、孫権の目からも異常に映る。


「周瑜」

「今は戦を始める状態ではない」


 断言する周瑜と怪訝そうに見つめる孫権に、ふと恒浪牙が口を挟んだ。


「周泰はそのまま孫権様の護衛とし、狐狸一族は周瑜殿の指示は受けず、孫権様は勿論、黄蓋殿などの古参の方々の意思を尊重して戦に参加するとのことです」


 周瑜は顎を落とした。
 それに追い打ちをかけるように、


「幽谷一人の為に大局を見誤ると断じられたことは、まことに腹立たしい。我ら都督への抗議を行動にて示す。それが狐狸一族の長のご意志です。残念ながら、伯母は気分屋な性分ですが、あなたが言う程小さくも軽くもない良く出来た器のお方なのですよ。あの方を評価するなら、そうですねぇ……あと二百年くらいは生きて下さい」

「二百年……それは、私にも難しいな」

「ですねぇ。人の子ですし。という訳で、今後相談したいことがあるならば孫権様が、周泰か私を介して長にお伝え下さい」


 孫権は一言の抗議も無く頷いた。

 これに周瑜は衝撃を受ける。
 孫権が狐狸一族の判断を受け入れたのだ。
 周瑜を除外することに、気分を害した様子も無ければ、触れもせずに――――。

 聞いていたとしても、許可した事実が、周瑜を容赦無く殴り付ける。
 言葉を失う周瑜に声をかけたのは、孫権だ。


「周瑜。今のお前の主張や態度は、やはり正気のものとは思えない。少しの時間しか残されていないだろうが、冷静に見つめ直した方が良い。お前の中の何をとは……私には分からないが」


 「すまない」周瑜に謝罪し、孫権は彼の横を通過した。


「狐狸一族の意思を汲み、これより黄蓋達と改めて話し合ってみよう。結果については、追ってあなたに伝える」

「おや、周泰が伯母に伝えるのであれば、私に聞かせる必要はございませんよ」

「いえ。周泰は、私の護衛であるならば」


 恒浪牙は、それで納得した様子である。
 周泰を優しい目で見つめ、ゆったりと頷いた。


「分かりました。そういうことなら私が伝達係を勤めましょう」

「すまない」

「いいえ。周泰にはとても嬉しいことでしょう。身内の幸せを喜ばない者は狐狸一族にもその周りにもいませんよ」


 恒浪牙は朗らかに言った。

 孫権はほっとして吐息を漏らし、足早にその場を後にした。

 周泰は尚香や恒浪牙達に拱手し、孫権の後を追う。
 その、微かに嬉しそうな顔に恒浪牙も「良かった」と漏らした。


「しかし……これは、また戦が停滞しそうですね。揉めなければ良いのですが」

「そんなこと……私が何とかしなければ……」


 尚香が独白する。


「はい?」

「……いえ。何でもありません。少し、肌寒くなって来ました。船を降りましょう」

「分かりました。では、念の為診察をしましょう」

「ありがとうございます」


 尚香は足早に歩き出した。


「早くしないと……折角お姉様の気配もしているのに……」


 その呟きは、無意識に漏れたものだろう。

 恒浪牙は聞き逃さなかった。
 尚香の背後で、双眼を刃のように鋭くする。



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