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 長江を挟み、曹操軍と対峙したまま、徒(いたずら)に時間ばかりが過ぎていく。
 曹操軍に動きが無いのは連合軍にとっては幸いやもしれぬ。

 呉、猫族、狐狸一族――――多種族混合の軍は今、壊滅的にまとまりを欠いている。何をしても何をせずとも、状況は悪化の一途を辿るだろう。
 これがほんの少し前の状態であったなら、まだましではあった。

 それが、たった一人の不安定な態度によって崩れひずみが生まれた。

 誤算であった。

 幽谷の身に繰り返される異変も。
 劉備の精神の弱さも。
 ……己の身体の脆弱さも。
 何一つとしてままならぬ。

 なんと情け無い我が身。

 甘寧は櫓の上から、向こう岸の曹操軍の陣容を眺めた。
 今頃、封統が曹操を利用して船同士を発火の術がかけられた鎖で堅く繋いでいることだろう。
 北で生まれ、北で育った者達には封統の献策が間違っているとは露程も思うまい。
 蔡瑁も張允も殺させた。船上戦に不慣れな兵士を鍛錬する者もいない。
 風の動きも、占いで定まっている。
 曹操軍を窮地に追い込む為の策の下準備はすでに整っていた。

 ……というのに、自軍がこの有様では、な。

 多勢に無勢。
 なればこそ策を講じているというのに。
 ここで、都督のお前が邪魔をするのか、周瑜よ。

 昔から何かと可愛がっていた。
 だから彼の望みの強さ故にあの矛盾した感情を抱え、矛盾した行動を取るのだと理解している。

 だがこれ程の障害となるとは、思わなかった。
 これでは劉備よりも邪魔だ。

 幽谷は――――彼女の身体は切り札だ。
 天上の者に非情と罵られることを覚悟して作った器なのだ。
 恐らくオレは、彼女を犠牲にせざるを得ない。

 こうもままならぬことばかりなのだから、きっと《彼女》との戦いも、想定以上に熾烈(しれつ)を極めるだろう。

 今まで大切な者を犠牲にした。
 だから今回もそうなる。

 上手く行かぬのも、罪深い狐が今更甘い考えを持ってはならぬと戒めてられているのやもしれぬ。

 家族すら犠牲にしたオレが、赦されることは、一生無い。

 嘗(かつ)て在りし《二人》の姿を思い浮かべ、自嘲に笑む。
 その時、ぎし、ぎし、と気が軋む音を立てて誰かが櫓に上がってきた。


「……お袋。孫権様が参られたが顔を出せるか」


 蒋欽である。

 甘寧はゆっくりと振り返った。


「行こう」

「……身体は?」

「今のところは、な」


 蒋欽は目を細め、一見我が子のような小さき母親を見下ろす。
 その目に宿った苛立ちと罪悪感を見た甘寧は、肩をすくめ、櫓から飛び降りた。

 嗚呼、息子に心配されるとは。
 これから彼女を殺さなければならぬと言うに、ほんに情け無い。

 溜息がこぼれた。



‡‡‡




 孫権の訪れに、誰もが戸惑った。


「どうしたっていうんだ? オマエが、ここに来る必要なんてなかっただろ」


 周瑜は孫権を見やり、怪訝そうに眉根を寄せた。

 孫権は周瑜を一瞥し外を見やった。


「……確かめに来た。尚香があれほど結婚を願ったこともあって劉備殿との同盟を結んだが、本当に、よかったのだろうか。聞けば、我が呉の将兵の士気は低く、曹操軍も想像を絶するほどの大軍だというではないか」


 このまま同盟を続けるべきかどうか、この目で直に確かめたいと思った。
 彼は目を伏せ、言う。


「……そうか。じゃあ、前線に行ってみるか。オレとしては、オマエが来てくれたことで、少しでも兵たちの士気があがるのを願うばかりだな。……正直、狐狸一族はもう宛にならない」


 孫権は、周瑜に視線で問いかけた。


「幽谷がな。最近猫族と仲良くなり過ぎてるんだよ。狐狸一族が幽谷に甘いのはオマエもよく分かってるだろ?」


 孫権の目がすっと細まった。


「それで、狐狸一族が劉備殿のもとにつくと? まさか」

「いいや、あの気分屋の甘寧なら有り得る話だ」

「……」


 孫権はやや軽蔑に寄った冷たい眼差しを周瑜に向けた。嘆息し、背を向ける。


「周瑜。甘寧とは、長い付き合いだと言っていたな」

「ああ。言ったな」

「それなのに何故、私に分かることすら分からない? 甘寧は安易で軽率な行動を取るような人物ではない。周泰も、私に誓ってくれた忠誠を違えることは無い。それに、幽谷が猫族と親しくすることに何の問題がある。尚香が劉備殿と結婚するのならば、侍女である彼女も当然猫族の中に混ざらねばならぬ」


 周瑜は、目を剥いた。
 まるで初めてそのことに気付いたような顔である。

 孫権はらしからぬ彼の様子を訝(いぶか)った。


「周瑜?」


 周瑜はばつが悪そうに顔を逸らした。


「……、……孫権、前線に行こうぜ」


 孫権は黙して周瑜を凝視した。
 ややあって、


「周泰を呼んでくれ」

「……」

「私は狐狸一族を信頼している。彼ら以上に、周泰を信じている」

「……」

「周瑜」


 じっと見つめれば周瑜が折れる。
 渋々と頷き、彼は足が重そうに歩いていった。
 背中からでも気が進まないのが見て取れる。

 孫権は護衛の兵士達を退がらせ、一人溜息をついた。


 その時だ。


「来たか、孫権」

「……甘寧か」

「ああ、勝手な理由で周瑜に疑われているオレさ」


 おどけた調子で入ってきた甘寧は蒋欽を連れて堂々と孫権に歩み寄る。
 兵士達も周瑜も気付いていないところを見ると、彼女が術で察知出来ないように感覚を歪めているのだろう。


「……皆には、迷惑をかけている」

「いや。お前が謝ることじゃないさ。周瑜がここに至って矛盾する感情の整理をつけない所為だ」

「矛盾する感情の整理……」


 甘寧は苦笑し、肩をすくめた。


「周瑜は本心じゃ幽谷に惹かれている。だが、理性がそれを許さず関羽を求めている。それに決着をつけない限り、あいつはあのままだ。いやはや……人間の男女とは難しいものだな」


 甘寧は大仰な嘆息を漏らし、己の自慢の尻尾の一本を掴んで弄(もてあそ)んだ。


「さもあらばあれ……オレはこの戦場に奴の存在はいねぇこととして、予定通り動かせてもらうぞ。すでに仕掛けた罠が勿体無ぇからな」


 孫権はやおら頷いた。


「ああ。……だが、周瑜は、この地にいる」

「お前達がそう思いたければ思えば良い。オレもオレで切羽詰まっていてな、邪魔な奴に気を遣える程の余裕は無ぇんだよ」

「分かった。では、そのように」

「お前は聞き分けが良くて助かるよ」

「そちらの言う『罠』の内容を知ることは?」

「周瑜に話せないんなら、お前と諸葛亮に話すしか無いだろうな」


 甘寧は尻尾を椅子代わりに座り、孫権の問いに答えた。
 蒋欽が外の様子を警戒する。
 周瑜達が来た時、この話は終わるだろう。
 それまでに聞くべきことは全て拾わねばならぬ。

 甘寧の話すそれもまた、この同盟について思案する大事な情報となる。

 彼女も孫権の胸中を分かってくれている。

 孫権は一つ大きく頷き、すっと背筋を伸ばして彼女の語る『罠』に耳を傾けた。



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