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「――――左様なことがなあ」


 張飛から周瑜のことを聞いた蒋欽は、顎を撫でながらにぼやいた。


「周瑜の奴め、焦っておるようだ」

「焦る?」


 蒋欽は片目を眇め、唇を曲げた。横に突き出した狐の右耳を摘み、かりかりと掻く。


「あれが荊州最後の猫族だとは、聞いておるか?」

「ああ、うん。それは本人から聞いた」

「故に、よ。あれは、今も昔も主らとは環境が違うのだ」


 「環境が違う……」張飛は反芻(はんすう)し、その意味を考えた。
 確かに、周瑜に聞いた話だけでも、自分達とはまるで違う立場であることは理解出来る。幽州の隠れ里で人間を避けてひっそりと暮らしてきた猫族には想像もつかない苦労をきっと、してきたに違い無い。
 それが、幽谷への執着を押し殺してまで関羽に寄りつくことに関係しているのか?
 納得していないという顔をしていると、蒋欽は苦笑を浮かべ、


「小さき頃から側に仲間も無く、家族すらも、喪った。人に蔑まれ、厳しい迫害を受けながらも執念でたった独り生き抜く。左様な人生で、欲しがらぬ筈があるまい。辛うじてでも、家族の温もりが記憶に残っておれば、尚更」


 張飛は声を上げた。


「……そっか。だから、あいつ、あんなにも姉貴に……」

「他の戦わぬ猫族の娘ではなく、強き女子(おなご)を求むるもまた、あれにとって大事な理由あってのことであろうよ。……すまぬが、これ以上は周瑜の為にも話す訳にはいかぬ。儂らも、あれが可愛いのでな。ただ……周泰がちと心配ではあるが」


 蒋欽は眦を下げた。肩を下げ、溜息をつく。耳も僅かに下を向いた。幽谷の時もそうだったが、周泰や封統を除く狐狸一族は感情が顔だけでなく耳にも現れる。とはいえ、幽谷はそれがずっと顕著だ。


「周泰も、お袋が拾うまでは家族や仲間と言ったものとは無縁の寂しい人生だった故……親しい周瑜の言葉に落ち込んでおるやもしれぬわ。後で、様子を見ておくこととするよ。すまぬな、張飛。こちらのことで面倒をかけた」

「そんなん、良いって良いって。オレ達はここに来るまで周泰や幽谷には世話になったんだし」


 蒋欽は笑みを浮かべ、張飛の頭を撫でた。
 大きく頷いてみせると大股に歩き去っていった。

 ……これで、こっちは大丈夫か。
 蒋欽なら甘寧にも上手く伝えてくれる筈だ。
 事が悪い方向に動かないことを祈りつつ、張飛はきびすを返した。



‡‡‡




 掌の上に浮かぶ水球の中、青紫の花が一輪くるくる回る。

 目の前を通過する二人の兵士の足取りは危うく、一瞬見た横顔も土気色で覇気が無い。
 ここは、まるで死人のような兵士ばかりがうじゃうじゃ鈍臭く動き回っている。
 見ていて不愉快だ。全部燃やして灰にしてしまいたくなる。
 それは今ではないと己に言い聞かせて封統は座っていた船の縁から降り、船団を歩いて回った。

 北の曹操軍は、荊州兵を吸収しておきながら、水上戦の知識がまるで無い。
 蔡瑁(さいぼう)らが殺された今はまだこちらが有利だ。
 だがそのまま放置すれば、時間が経てば経つだけきっと兵士も地味に揺れる床に慣れてくる。船上の戦いに不慣れでも、船酔いに足がふらつくこともあるまい。

 なればこそ、今のうちに《間違った知識》を植え付けてやれ。
 その為に、封統はここにいる。

 さあかかれ。
 僕の広げた網に、かかれ。
 狙いは一人。
 曹操軍の中枢――――。

 ふと、封統は足を止めた。
 目を伏せ、薄く嗤(わら)う。


 哀れな混血の男が、網にかかった。


「……ここで何をしている」


 背後からかかった声に、封統は焦らすようにわざとゆっくりと身体の向きを変えた。
 首を傾げ、小さく笑う。


「おや……おかしいな。君はどうして僕が見えるんだい」


 今の僕は、猫族と人間には見えない筈なのだけど。


「まさか、君はそのどちらでもないのかい?」


 茶化すように口調を装って言うと、曹操は薄く笑う。
 その黒き瞳には、黒よりも汚れた執念が見える。
 咽の奥から渇望しているものを、一度は心ごと手にしたことを忘れ、今また孤独の粘着質な闇に囚われた哀れな混血の男。

 僕のことを、混血と勘違いして、利用されるのだ。
 呉の勝利の為に。

 封統は肩をすくめる。


「そうだと言えば、どうする?」

「どうもしないさ。僕は、狐狸一族が人間や猫族と手を組んでいるのが不愉快だから、呉に不利なことをしに来ているだけだし」

「ほう? ならばお前は呉の敗北を望んでいると?」


 鼻で笑ってみせる。小馬鹿にした、邪気のほとんどない態度を取る。


「それは手段。僕の望みは僕が世話になっている狐狸一族が人間とも猫族とも手を切ること。だってムカつくだろう? 僕は猫族や人間と関わるのが嫌で狐狸一族に入ったんだ。だのにこうして、下らない人間の争いごとに巻き込まれてさ……忌々しいったら!」


 たまたまそこに置いてあった桶を蹴り倒す。中に溜まっていた吐瀉物がぶちまけられた。酸(す)い臭いが鼻を突く。


「という訳だから。暫くこの陣を見させてもらうよ」

「……」


 返答は、無かった。黙して封統を凝視する。
 気持ちが悪い。よくもまあ、関羽はこんな男を愛したものだ。あいつの感性も相当おかしいだろう。
 封統は鳥肌立たせながら曹操の言葉を待った。

 やがて、ゆっくりと曹操の手が持ち上げられる。


「だが、余所者に陣地を見て回られるのは気分が悪い。加えて、勝手に何かされていては将兵が混乱し、最悪士気に関わる」

「ああそう、でも僕は決めたことを変えるつもりはさらさらないよ。諦めて」

「……では、こうしよう。この戦いの間だけ、我が軍の参謀としてお前を雇おう」


 嘘だな。
 瞳の奥に策謀を感じ取った封統は、しかし表面上は興味を持ったように見せかけた。


「へえ。そう。面白いね。君の頭。そんな簡単に軍に入れちゃうんだ」

「在野の有能な人材を捨て置くなど、愚行。覇道の為、才を多種多様抱えれば多少の損はあろうが、それ以上の得を望めよう」


 そしてそれらを束ねる絶対的な自信と、自信を裏付ける確固たる力量を、この男は持っている。
 だからこうして北を制し、呉を攻めているのだ。

 曹操。
 彼の存在は大きくなればなる程、帝の威光を遮る巨大な笠となる。
 そして、臣下の誰かが恐れ、或いは行く先の姿を嫌悪し、反旗を翻した時――――彼は容赦無く斬り捨てるだろう。埋め合わす有能な人材は他にもいるのだからと。
 この乱世故に抜きん出たこの男は、いつかは誰かに討たれねばならぬ存在なのかもしれない。

 それが、この戦であるかは、分からない。

 ……なんて、僕には至極どうでも良い話か。


「ま、そっちの方が楽そうだから、良いよ。ただし、僕に誰も関わらないようにさせてよね。僕があんたに指示を出すから」

「ああ」


 曹操は笑みを深くした。

 混血を、彼は手放さないだろう。
 ……残念だけど、僕は混血じゃないんだよね。
 ただ、故あって目が黒い方を表に出しているだけだ。

 混血というだけで、無条件に疑わない曹操が、何とも愚かで哀れなこと。

 呉が負けることは無い。
 大敗するのは、君だよ。曹操。

 騙されたと分かった後の彼のことなど、知ったことではない。



 僕はただ、甘寧の思うように動くだけ。



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