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 あちらも動かぬ。
 こちらも動けぬ。
 大河にて睨み合う両軍は、膠着状態のまま時が過ぎていく。
 張り詰めた琴線はいつ、何をきっかけに切れてしまうか分からない。
 何処で何が開戦の合図になるか分からない現状に、精神的に疲弊する者も多い。
 このままでは士気も下がっていく一方である。
 そこで、周瑜と諸葛亮は曹操軍に揺さぶりをかける為、狐狸一族と水軍を用いて奇襲を仕掛け、小競り合いを起こすことを思案しているらしい。

 体調の整った幽谷は、然るべき時に備えて今のうちに鍛錬をしておけとの甘寧の命を受け、陣の中を歩き回っている。
 鍛錬に付き合ってくれる人はいるだろうか。
 呉軍の兵士は恐縮して受けてくれない。
 周瑜も今は諸葛亮と共に曹操軍の動向に注意を向けており、他のことを気にかけているべきではない。それに体調のこともある。彼に無理を強いることは出来ぬ。
 狐狸一族の兄弟は周泰や蒋欽以外、幽谷と鍛錬となると強く拒絶する。嫁入り前の妹に怪我をさせたくないという気遣いあってのことだが、どうしてか封統の鍛錬には付き合うのが不思議だ。

 周泰は、幽谷とは別に甘寧から命を受けたらしい封統に代わって劉備の監視に就いている。
 蒋欽は甘寧の護衛であり、兄弟や呉軍との大事な連絡役だ。その彼の手は借りられない。

 となれば……やはり猫族にお願いしてみるしかない。
 趙雲殿や張飛殿ならば、或いは引き受けて下さるだろうか。
 一応、捜して手空(てす)きかどうか訊ねてみよう。忙しそうなら、余所を当たろう。最悪、私の代わりに尚香様のお傍にについていて下さる恒浪牙殿に相談してみるつもりだ。

 猫族を見かける度、幽谷は二人どちらかの所在を訊ねた。
 温厚な彼らは幽谷の体調を気にかけてくれたが、二人を見かけたらこちらの用件を伝えてくれると言ってくれた。これはとても有り難い。

 猫族の協力もあって、張飛達の方から幽谷を見つけてくれた。
 たまたま一緒にいたのだろう、蘇双や関定の姿もあった。


「よう、幽谷。鍛錬に付き合って欲しいんだって?」

「はい。張飛殿、お手数をおかけしてしまい申し訳ありません」


 張飛は笑って首を振った。


「気にすんなよ。オレも助かるし。ここんとこ曹操軍に動きが無いんじゃ、気張ってばっかで疲れるだけだしな。逆に鍛錬してくれるって言ってくれて助かったぜ。あっちの鍛錬場で良いか?」

「はい」


 移動しようとすると、張飛の隣で趙雲が承伏しかねるような顔をする。彼は、幽谷が回復するまで尚香以上に頻繁に見舞いに来てくれていた。その度に恒浪牙に容体を訊ねる程心配してくれていたらしい。
 それは、今も同じのようだ。趙雲は幽谷の顔を覗き込んでくる。


「身体は大丈夫なのか。先日倒れたばかりだろう」

「はい、趙雲殿。大事ありません。我らが長からも、鈍った身体を元の状態に少しでも早く戻すようにとの命令ですので」

「……そうか。だが、鍛錬で無理をしないでくれ」

「お気遣い、ありがとうございます」


 彼にも一礼すると、頭を撫でられた。



‡‡‡




「始め!」


 関定の号令と共に、二人は動く。

 先に仕掛けたのは張飛だ。
 真っ直ぐ肉迫して拳を突き出す。
 硬く握られたそれに闘志はあってもこちらに当てる気が無い。幽谷が避けることを見越しての拳打である。

 これを回避すれば次いで二の矢が来るだろう。

 一瞬にして彼の意図を察した幽谷は避けずに拳を掌で受け止め力を込めずに片足を引いて半身とし、後ろへ力を流した。
 無防備になったうなじに向けて手刀を落とす。

 張飛は足を曲げて姿勢を落とし横に転がって回避する。立ち上がり様手刀を横に薙(な)ぐ。
 幽谷は身体を反らして張飛の顎めがけて蹴り上げた。
――――当たらない。

 張飛は一旦間合いを開けた。

 幽谷も体勢を戻し後方へ跳び退(ずさ)る。
 瞬き数度の短い応酬のさなか、幽谷は己の動きの鈍さを自覚する。
 同時に雑念無く鍛錬に打ち込めることに心から安堵した。鍛錬に集中しているうちは、今まで胸中に蟠(わだかま)っていた重苦しい疑念を忘れていられて気が楽だった。

 張飛は強い。
 幽谷と比べれば能力では張飛が劣るが、幽谷自身彼との手合わせでも油断が出来ぬ相手だと認識している。
 そもそも猫族の武術は独特の型がある。
 張飛の体術もそれに準じており、記憶無くともあらゆる武術が身体に染み着いている幽谷にとっても馴染みが無い故、判断が半瞬遅れて危うい瞬間もあった。

 今では慣れつつあるが、たかだか鍛錬程度でも油断は許されない。

 今度は幽谷から仕掛けた。
 一瞬で懐に入り込み足払いをしながら顎に掌底を叩きつける。
 手応えは薄い。

 張飛が顎を反らして衝撃を避けたのだ。
 だが足は彼の足首をしかと捉えており、蹴り上げて転倒させる。

 張飛の足が鳩尾狙って突き上げられる。
 幽谷は半身になってこれを避け、足首を掴まれる前にその場から跳躍して逃げた。

 立ち上がった張飛が幽谷に迫る。驟雨(しゅうう)の如(ごと)拳打を繰り出す。
 その全てを避け幽谷は腰を蹴りつけた。これは当たった。


「ぐ……っ」


 衝撃に張飛の動きが止まった一瞬の隙を幽谷は見逃さぬ。
 張飛の腕を掴んで背負い投げにした。

 だが身を捩って逃げられる。すぐに手を放して距離を取った。

 それからも攻撃を仕掛けては避け、反撃しては避けられ――――その繰り返しだ。
 鍛錬で相手を殺す気が無い故のこととは言え、どちらもあと一歩のところで決着をつけられない。

 幽谷には長く続けられることが有り難かった。
 この応酬を繰り返せば繰り返す程、元の動きが戻って来ている。実感があった。
 快く了承して下さった張飛殿には、感謝しなければ。

 結局は幽谷が勝ったが、そんなことはどうでも良かった。お互い、強敵と手合わせをすることで得られたものは多い。それで十分だった。
 双方頭を下げ合い、ひとまず休憩となった。


「幽谷。大丈夫か?」

「はい。だいぶ鈍っていましたが、感覚が戻ってきました。休憩の後、剣にてお相手をお願いします」

「ああ。分かっている。だが、俺と鍛錬するからにはしっかり休んでくれ」

「そのつもりです」


 張飛が汗だくで鍛錬場を囲う柵に寄りかかる。


「あー、やっぱ幽谷強ぇよなー」

「いえ。張飛殿の方こそ、私には油断ならぬ相手です。共闘出来て光栄です」

「幽谷。張飛のことそこまで褒めなくて良いから」

「そうそう。こいつ幽谷に褒められるような奴じゃないから」

「お前らな……」


 疲労故か、じとりと恨めしそうに睨むのみである。
 蘇双と関定は肩をすくめ、幽谷を見た。


「幽谷って凄いよね。色んな武器も自在に扱えるし、体術だって誰にも負けないとか」

「そうそう。周泰とか蒋欽とか、狐狸一族の兄貴達には負けるんだろうけどさ、少なくとも猫族や呉の武将よりも強いよな」

「いえ。そんなことは……」

「あるって。鍛錬だけでも幽谷の強さはひしひし伝わってくるんだぜ。周泰や幽谷はオレ達の味方でいてくれるのが心強くて本当に有り難ぇんだ。ああでも、戦になって困ったらオレ達にも頼ってくれよな。オレと幽谷はダチで、仲間なんだし」


 にっかと笑う張飛に、自然とつられて顔の筋肉が弛む。


「有り難きお言葉、恐縮で――――」

「幽谷。アンタ鍛錬場で何やってんだ」


 幽谷の言葉は末尾で遮られた。
 聞こえたのは非常に重厚で威圧的な声。
 振り返ろうとすると背後から首に腕が回り、軽く絞められた。

 幽谷の背後に立つ男に、蘇双達があ、と声を上げる。


「周瑜」

「猫族と鍛錬か? 精が出るな、幽谷」


 機嫌が悪いのか、周瑜の言い方には棘がある。振り返れば金の瞳には僅かばかりの険が滲み、それは幽谷に向けられているようだ。

 出歩くようになってからは一度も周瑜と話していない。気を悪くさせるようなことをした覚えは全く無かった。

 ……猫族と鍛錬をしたのが気に食わないのか?
 いや、そんな筈がない。
 将来どうなるか不透明とは言え、今は同盟を結んだ仲だ。来る大戦に備えて猫族と幽谷が鍛錬をしたくらい、どうということでもない。その程度で一体誰の目くじらが立とうか。

 周瑜の不機嫌の理由が皆目見当もつかない幽谷は取り敢えず腕を外そうと掴んで引っ張った。外れない。


「あの……」

「彼女を放してやったらどうだ。たった今、鍛錬を終えたんだ」

「なら、このまま連れて行っても良いよな?」

「いえ。母の命令で、鍛錬を続けなければなりませんので」


 ぐっと引かれ、幽谷は腕を叩いて拒んだ。


「アンタ、倒れたばかりだろうが。命令だからって、やり過ぎろとは言ってないだろ」

「はい。ですので、今日は張飛殿と趙雲殿にお付き合いいただいた後は、恒浪牙殿の診察を受けます」

「一人で十分だろ」

「いえ。時間が限られている中で少しでも本来の状態に戻さねばなりませんので。勿論、戦に支障を来(きた)すような真似はしません」


 だから大丈夫だと、再び腕を外そうとするも、放してくれない。
 と、趙雲が無理矢理に腕を剥がし、自らの方へ幽谷を引き寄せた。趙雲に抱き寄せられるような形になり、関定が「おおー修羅場修羅場」と面白げな声を上げた。


「おい。狐狸一族は呉に協力してるんだ、猫族に引き込むような真似は止(よ)してくれ」

「引き込む引き込まないの問題ではない。今は猫族も呉も狐狸一族も、一丸となって曹操に立ち向かうべくしてここにいる。俺達が仲間である幽谷の力になることに何の問題があるというんだ」

「オレが問題視しているのはその後のことだ。曹操を撃破した後、呉と劉備の間がどうなるか、まだ分からない。こちらの目を盗んで幽谷懐柔して狐狸一族を味方にされちゃ困るんだよ」


 心外だ。
 趙雲達が籠絡するやもと疑っていたこともそうだが、幽谷が容易く籠絡され家族を振り回し、尚香の傍を離れる愚かな女だとそう思われていたことの方が、腹立たしかった。
 胸からせり上がるものを抑え込みながら、幽谷は周瑜を睨んだ。今、この男の顔を見たくないと思った。


「周瑜殿。あなたにとって私はそのように愚かしい者でしたか。私の尚香様への忠誠のみならず兄上の孫権様に対するそれすらも疑っておられたとは、不愉快です」

「じゃあアンタは何でこいつらとつるみたがる?」

「つるみたがっていませんし、言う程接触がある訳でもありません。周瑜殿は私の行動を全て把握しておられる訳ではないでしょうに、何ゆえそのように決めつけられますか。知った風な口を利かないでいただきたい」

「おい、幽谷」

「もう結構。……私にその声を聞かせるな」


 低く、唸るように言う。

 苛々する。
 猫族に籠絡されるだの何だの勝手に決めつけられて不愉快だ。特に相手が周瑜だからだろう。このまま会話を続ければ拳が出そうだ。
 こちらも嫌悪を滲ませて睨み返す。

 嗚呼、これでは駄目だわ。
 周瑜がこの場から立ち去っても鍛錬に集中出来ぬであろう。

 幽谷は趙雲の手をそっと払い退け、彼らに向けて拱手(きょうしゅ)した。


「申し訳ございません。趙雲殿。少々気分が悪くなりましたので、ご迷惑でなければ夕方にお手合わせ願えますか」

「ああ。構わない。その時はここで待ち合わせよう」

「分かりました。では、失礼致します」


 何か言おうとした周瑜には匕首を投げつけて黙らせた。
 幽谷は冷たく一瞥してその場を大股にその場を離れた。

 このささくれ立った心が、夕方には治まるように願いながら――――。



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