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 時間を、遡る。



――――気を失っていたらしい。
 目覚めた幽谷は救護用の天幕で横になり、恒浪牙の治療を受けていた。
 側には尚香。不安そうな顔で幽谷を見下ろしている。


「幽谷。大丈夫ですか? 私が分かりますか?」

「……はい。尚香様」


 ゆっくりと身を起こすと、頭が異様に重たい。まるで頭蓋の中にドロドロした水が溜まっているかのような、不快な感覚だ。首を左右に振るだけでも意識がぐらついて身体ごと傾いでしまいそうになる。
 不安定な頭を支えようと顔を片手で押さえると、尚香が背中を支えてくれ、恒浪牙がすかさず薬湯を差し出した。

 有り難く受け取り、数回に分けて熱いそれをゆっくりと飲んだ。


「気分が如何です?」

「あまり、良くはありません。とても頭が重くて……」

「そうですか。ならば今日はこのまま横になって、様子を見ましょう」


 幽谷の額に手を当て、熱を測る。


「ふむ……熱も少しありますね。もう一種、解熱の薬を調合しておきましょう。夕餉の際に白湯で飲んで下さいね」

「分かりました」

「幽谷。大人しくしているのですよ」

「はい」


 素直に横になった幽谷に尚香は微笑みかけ、恒浪牙に頭を下げて立ち上がった。
 劉備のもとにいると言い残し、彼女は無理をしないように数回釘を刺して天幕を出て行った。

 それを見送りながら、


「恋する乙女は、時に非情になりますね」


 棘のある言い方だ。
 恒浪牙は肩をすくめ、調剤の為の器具を引き寄せた。


「では私は今日はここで薬を作っていますから、安心して休みなさい」

「はい。……あの、私は、」

「なに、ただの心労と疲労が重なって体調を崩してしまっただけですよ。尚香様のことで、色々ありましたし。狐狸一族ですから、私の薬を飲んでぐっすり眠れば、明日の朝には全快するでしょう」

「……はい」


 幽谷は神妙に横たわった。

 恒浪牙は彼女の頭を撫でて薬の調合に取りかかった。

 彼の衣の擦れる音、調合する薬草を擦り潰す音を聞きながら目を伏せるも、眠気は全く無い。
 暫くそのままでいてみたが、無駄だった。
 やむなく目を開けると、恒浪牙が幽谷を見て苦笑していた。


「無理に眠ろうとしなくて良いですよ。横になって大人しくしていれば、そのうち睡魔もおいでになるでしょう」

「そうなのですか?」

「さあ」

「……」

「いやあ、ほら、睡魔は結構自分勝手なものなので。立っていたり本を読んでいたりしていても睡魔はやって来るでしょう?」


 まあ……確かに。
 やおら頷く。

 恒浪牙は小さく笑った。


「……大丈夫ですよ。今から騒がしい人が来ます」

「え?」

「幽谷よ! 無事かーっ!!」


 大音声でビリビリと空気が震える。肌まで痺れた。
 咄嗟に首を竦めて入り口の方を見やると、大男が周泰を伴って現れた。
 身を起こそうとすると恒浪牙に止められる。


「大兄上」

「おお。幽谷。顔色は良いな。恒浪牙よ。具合は如何に」

「このまま安静にしていれば戦に出られますよ。丁度良かった。暫く彼女の話相手をお願いします。私は少し席を外しますので。ああ、自分の天幕に足りない薬草を取りに行くだけですのですぐに戻って参りますからね」


 蒋欽に任せると言い置いて、彼は足早に天幕を出て行った。

 蒋欽は幽谷の側にどっかと地面を揺らして腰を下ろした。


「封統から倒れたと聞いて、驚いたぞ。どうした」

「すみません。まだ、記憶が曖昧で……何をしていたのか、思い出せなくて」

「そうかそうか。では今は思い出せぬことも忘れておれ。休むことだけを考えるのだ」

「はい」


 頷くと、蒋欽がにっかと笑い、周泰が幽谷の頭を優しく撫でた。優しく気遣ってくれる兄弟に見下ろされ、ほっと全身から力を抜く。

 蒋欽は顎を撫で、少し顔を上げた。


「さて……。恒浪牙には話相手をと頼まれたが、何を話そうか。弟達は別段何も変わらぬでなあ」

「すみません。大兄上」


 長兄はにこやかに首を左右に振る。


「なに、気にするな。思えばこうしてゆっくり話すことも無かった。これは良い機会だ。しかしなあ……ふむ……何を話してやろうか」


 腕を組み、唸りながら思案を巡らす。
 他愛ない話でも良いのに……そう言っても、そんな訳にはいかないと真面目に言うのだ。『良い機会』だから、真剣になっている。
 申し訳なく思うが、そんな長兄の姿に嬉しくも思う。

 周泰も蒋欽を止めようとはせず、彼が話題を決めるのをじっと待っている。

 やがて蒋欽は、ぱんっ、と大きな音が響く程強く己の膝を叩いた。


「そうだ、儂の話をしようではないか」

「大兄上の話ですか?」

「左様。儂の、若い頃人の世を旅しておった頃の話よ。聞いたことは無かろう」


 聞いたことが無い。
 いや、それ以前に気にしたことが無かった。
 一番上の蒋欽は、今いる狐狸一族の誰よりも古くから甘寧の側にいたものだと思っていた。
 人の世を巡っていたとは、意外だった。

 周泰も、幽谷と同じ心境のようだ。顔に、僅かに驚いたような感情が見える。


「儂はな、強いだろう?」

「はい」

「ある時、己の強さがこの世で何処まで通用するか試してみたくなった。大陸中を旅して回り、様々な武人に手合わせを所望し、全てに勝ってきたが……あれは雨の日であった」


 蒋欽は目を細めて懐かしむ。
 彼の若い頃と言えば、一体どれだけ昔なのか。
 三百年前からいるとのことだが、幽谷の推測ではおよそ二百年は前と思われる。

 自慢話と言うよりも、蒋欽自身が当時のことを懐かしみ、帰らぬ過去に思いを馳(は)せている。


「儂は、これはという男にとうとう出会った。食事の最中だったのだが、儂はその男に勝負を所望した。男は驚いていたが、快く了承してくれた。手合わせは、晴れた翌日、天頂に日の昇った時、長江の畔(ほとり)であった。儂は大剣、男は細剣。しかし儂はその男の武を見込んでいた。こやつはあの細い剣で儂の大剣をいとも容易くいなしてしまうだろう――――ようやっと巡り会えた、自身に匹敵、否、自身を凌駕するやもしれぬ強者を、人間の中に見出したのだ」


 蒋欽の声音はどんどん弾んでいく。
 思い出に浸り過ぎて興奮しているのだ。
 幽谷もそんな長兄につられて、話に引き込まれていく。無言で聞き入った。


「勝負は、夜が更けても続いた。長い時間、何百合と刃を合わせても、お互い決定打を繰り出せずにおったのだ。決着がついたのは朝日が遠い尾根から顔を出したその時だ。儂の大剣が、男の一閃受け止めた瞬間に割れてしもうたのだ。つまり、儂は男に敗けた」


 だが、声は嬉しそうなままだ。蒋欽の表情を見ても、むしろ話はこれから、という感じだ。

 まだ続きがあった。


「儂はその後、男と意気投合してなあ、翌朝には我ら、なんと義兄弟となったのよ! 兄者によって杯に注がれた酒に勝る美酒は、未だ無い」


 呵々(かか)と笑い、蒋欽は背を僅かに反らせた。
 とても誇らしげだ。
 兄者――――では、蒋欽が弟となったのか。
 幽谷は目を細めて感情豊かな長兄を見上げた。


「儂と兄者は、名の読みが同じでなあ。それにも縁を感じずにはおれなんだ。兄者は死んでしもうたが、儂はいつでも兄者の義弟よ。お袋には悪いが、お袋の息子でいることと同じく、儂の一番の誇りだ」


 蒋欽の笑顔が、眩く思える。

 幽谷は目を細め、また彼につられて口元を綻ばせた。
 それから、蒋欽はずっと義兄との武勇伝を語ってくれた。言葉一つ一つから蒋欽が如何に兄者を尊敬し慕っていたかがよく分かる。

 だが。

 不思議なことに、蒋欽は兄者の名前を一度も言わなかった。
 訊きたいと思ったけれど、徹底して出さない彼に遠慮が出てしまって、ずっと聞き手でいた。

 どうして、大兄上はその人の名前を出さないのだろう。
 そんなにも大事な人で、尊敬するべき人であるなら、名前を幽谷達に教えたとて構うまい。
 その理由を知らず、幽谷は心の中で首を傾けた。



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