「劉備! 劉備!」


 誰かが呼んでいる。悲痛な声で呼んでいる。
 女一人だけではない。
 沢山の誰かが必死に呼んでいる。


「劉備様! お願いです! どうか落ち着いてください!」

「劉備様! 金眼の力に乗っ取られてはなりません!」

「劉備! 劉備! しっかりして!」


 直後、大きな音がした。

 ……いや、これは音だろうか?

 音ではない。
 これは咆哮だ、獣のような人の雄叫びだ。狂い、嘆き、乞い、腹の底から激情を放出している。
 それは誰のものだろうか?

 嗚呼、《ぼく》だ。

 ぼくがさけんでいる――――……。


 赤い。

 赤い。

 あかい。

 アカイ。


 全てが赤いんだ。
 ねっとりと赤が壁に、塊に、自分にまとわりついている。

 気持ち悪い。
 恐ろしい。


 どうしてぼくのまわりはこんなにあかいんだろう?


 何処もかしこも赤ばかりだった。
 この赤は花の赤とは違う。
 生命力に満ち溢れた鮮やかな赤ではない。
 この赤はおどろしき赤だ。

 死の赤。絶望の赤。狂気の赤。悲嘆の赤。

 怖い。
 怖いんだ。
 こんな所にいたくない。
 おどろしき赤に包まれていたら自分を見失ってしまいそうになる。
 心の中でのたうち回る凶悪な異物が自分を喰い殺して乗っ取ろうとしている!
 嫌だ嫌だ嫌だ!!
 どうして、こんなことになっている!?
 分からない。
 分からない!
 誰か助けて!!

 その時、誰かの名前が頭に浮かんだ。
 呼べばいつでも自分を助けてくれる大切な、頼もしい名前が。

 でもその人名を、呼べなかった。

 呼べばその人は応えてくれる。
 いつもいつも側にいてくれて、いつもいつも色んなことを教えてくれて、いつもいつも自分を助けてくれる名前と声しか分からぬ人。
 いつしか、声が聞こえなくなって、自分もその名前も忘れてしまった。

 今更その名前を呼んで、本当に大丈夫なのか――――正直、怖かった。
 見捨てられたかもしれない。
 ずっと自分の中にいて、一緒に楽しいことを共有してくれた人を自分は捨ててしまったのだと、幼いながらに分かっていた。
 だから、その時呼べなかった。


『助けて欲しい時は、躊躇わずに俺の名前を呼びなさい。必ず、劉備の力になろう』


 優しく言ってくれたのに。
 呼ばなかった。
 呼ばずに、この大罪すらも、自分は忘れていたのだ。

 なんて自分は罪深いのだ。

 こんなぼく――――僕を、彼らは……。



 絶対に、赦(ゆる)してはくれない。




‡‡‡




 劉備は一人、船上に立ち思案していた。

 思い出される残酷な大罪。
 頭が、目頭が、胸が、痛い。
 いっそ身体の何処かを突き刺してくれれば、肉体的な痛みで紛れる。
 それが一時しのぎでしかないとは勿論分かっている。またすぐに責め苛(さいな)まれる。
 罪から逃げられる筈がない。

 分かっている。
 分かっているんだ!

 ぎり、と音がする。
 無意識に奥歯を噛み締めていた。
 我に返ると掌に微かな痛みが走った。

 力んでいたのは口だけではなかった。
 掌の中央に赤く短い線が横に三本並んでいる。
 爪が食い込んでいたのだ。
 劉備は溜息を漏らして肩から力を抜いた。

 ふと、呼びたくなった名前がある。
 でももう頼る資格が無いと唇を引き結ぶ。

 小さくかぶりを振り、深呼吸をした。

 その時だ。
 背後に気配を感じた。


「劉備様。お茶が入りました……」

「う、うん。ありがとう」


 盆に二人分のお茶を載せて歩いてきた尚香は、うっとりと目を細めて微笑んだ。

 その後ろには関羽。尚香に気まずそうな目を向けて、数歩距離を取っている。
 そこからまた離れた場所に、幽谷と蒋欽。彼らは川面を見下ろして仲が良さそうに話している。軍議の後で一時恒浪牙の世話になったと尚香から聞いたが、もう体調は良いようだ。


「船の上で飲むお茶は如何ですか?」

「うん、とてもおいしいよ。尚香はお茶を煎れるのが上手なんだね」

「ふふ、それはよかったです……。劉備様と二人きりだったらなお、良かったのですが……」


 言いつつ、尚香は関羽を忌々しそうに睨めつける。

 関羽は顔を強ばらせて肩を縮めた。


「どうして、あなたがここにいるのですか……? 幽谷や蒋欽は、気を遣って離れて護衛してくれているというのに」

「どうしてって……今は、わたしが劉備の護衛当番なので……」

「劉備様、でしょう……? ケジメは大事ですよ……」

「う……」


 見かねた劉備が助け船を出した。


「尚香、僕は別にかまわないよ」


 すると、彼女は一変して幸せそうな笑みを浮かべるのだ。その変貌は劉備でも戸惑いを覚えてしまう。孫尚香という娘は、こんな人物だったのか……疑念が浮かぶ。


「そうですね、劉備様……。せっかくの劉備様とのお茶の時間ですもの。もっと二人で語らいましょう……」


 どうも、会話が噛み合っていないように思う。
 劉備は彼女が出会った頃と別人なのではないかと思ってしまいそうになる。
 だが、彼女は間違い無く孫尚香――――孫権の妹だ。
 もし何処かで入れ替わっているとすれば、甘寧が指摘する筈だ。それをしないのなら、そういうことなのだ。
 ひょっとすると、戦の空気に精神が参ってしまって不安定になっているのかもしれない。
 尚香は姫君だ。武人でも兵士でもない。
 けれども劉備を支えたい一心でこの地までついてきた。
 とてもいじらしいと思うと同時に、申し訳なかった。
 だって、自分の心は――――。

 その後ろめたさから、劉備は尚香との仲に齟齬(そご)を感じながら、深く追求はしなかった。
 逃げている自覚はあった。
 そんな自分を情けないと己のうちで良心が罵倒する。

――――けれども。

 風が吹いた。


『今はそれで良い』


 風の唸りに混じり、微かな声が聞こえた。
 胸の内からのそれに劉備は身体を跳ね上がらせる。
 胸を押さえ瞠目した。


「今のは……」


 どうして、聞こえた?
 今までずっとずっと聞けなかった声だった。
 あんな夢を見ているから、幻聴となって聞こえたのだろうか。

 確かめたくとも、声はもう、聞こえなかった。


「劉備様? 如何なさいました?」

「劉備? 気分でも悪いの?」

「あ……ううん。何でもないよ」


 劉備は取り繕うように笑い、首を左右に振った。

 ……やっぱり、気の所為……だったのかな。
 全身から力が抜けそうになるくらい、落胆した。



.

- 142 -


[*前] | [次#]

ページ:142/220

しおり