「うーん。これは困った。どうしましょうかねぇ」


 恒浪牙は腕を組んで唸った。
 彼のいる天幕に至るまで、幽谷は現在の幽谷の記憶を呼び起こすことは出来なかった。

 身を犠牲にして命尽きたまでの記憶しか持たない幽谷は、深々と頭を下げるしか無かった。


「申し訳ありません。大変なことをお願いしておきながら……」

「いえ、あなたが狐狸一族として生まれ変わったのは伯母上の一存ですから、あなたが気にする必要はありません。ありませんが……あなたが表に出たのは、ちょっと問題ですね。これまでに劉備殿にはお会いしてませんよね?」

「そこは問題無いよ。幻術かけて周りの目を誤魔化したから」


 恒浪牙は安堵した。


「それなら安心ですね。ですが、私や砂嵐ならともかく、伯母上程の方の手が加えられていてあなたの意識が出てしまうなんて、本来なら有り得ないことですよ」


 狐狸一族の甘寧については、封統から聞いた。
 天帝に近い、永い時を生きた九尾の狐。
 確かに、それ程の存在なら幽谷程度の意識など簡単に、厳重に封印しておける筈。
 幽谷は自身の獣の耳を摘む。生き物の温もりがある。


「肉体は完璧なんですよね」

「ええ。不完全な器をあの方が用いる筈がない。考えられる原因は幾つかありますが……」


 そこで、恒浪牙は口を噤む。
 一瞬だけ辛そうに顔を歪めたのに、幽谷は軽く驚いた。


「恒浪牙殿?」

「……いえ。色々気を回すことが多すぎて疲れてしまったんでしょうね、馬鹿なことを考えてしまいました」


 恒浪牙は首を横に振り、苦笑を浮かべた。


「とにかく思い当たる可能性が多い。絞り込む為にも身体の状態を調べてみましょう。横になってもらえますか? 封統。念の為外で見張りを」

「分かった」


 何だか変な感じだ。
 犬猿の仲の二人が円滑な会話をしている。大人びた姿の封統が恒浪牙の指示に従っている。
 きっと、今の状態は彼らがそんな風にならなければならないような、重大な問題があるのだろう。

 ……本当に、どうして私、目覚めてしまったのかしら。
 恒浪牙に促され、寝台に横になる。


「現在で、何か意識に気になる点はありますか」

「……少しぼんやりとしていますが、問題と言える程ではありません」

「そうですか。問題となる程のものではない……と」


 それから目覚めた時の身体の状態を確認されたり、触診されたり、術で魂の状態を診られたりした。今調べられることは全て、調べられた。
 だが、恒浪牙は渋面を作る。
 嘆息し、首を左右に振る。
 先程一瞬見えた表情と同じ顔になり、眉間を押さえた。


「どうかなさいましたか」

「……情けなくて大変申し訳ないのですが、異常は特に見られませんでした」


 嘘だと、幽谷はすぐに分かった。
 だが彼の様子から、追求しても答えはしないだろう。多分、彼にとって訊かれたくないことだ。
 迷惑をかけている手前、何も問わなかった。


「では、どうすれば良いのでしょう」

「ひとまずあなたの意識を封じましょう。幸い幽谷の意識はあなたに押し退けられて眠っているだけのようですから、今のうちにあなたが引っ込めば後遺症も無く彼女が目覚める筈です。伯母上にも私からご相談して、解決策を探してみます。一番は、在るべき状態に戻ることですから」

「……分かりました。では、お願いします」


 幽谷は深呼吸をした。
 痼りは残っている。沢山、心に残っている。目覚めたばかりですぐに消えなければならない。
 このままで良いのか、と自分の現状をもっと詳しく知りたがっている自分がいる。

 けれどこれ以上死人が表に出ることは、決して赦されないことだ。自分のことを知れば、自然周りの情勢が見えてくる。私はきっと、いや、必ず干渉したくなるだろう。
 それは絶対にやってはいけないことだ。

 早いうちに――――猫族に会わぬうちに眠らなければならない。
 私は、狐狸一族の幽谷の基礎となった。
 関羽の従者幽谷は、官渡の地で死んだ。人々の記憶から抹消された。
 だから私は消えなければならないのだ。少しでも長く居座りたいなどと考えてはならないのだ。


「お願いします」


 幽谷は目を伏せ、小さく頷いた。



‡‡‡




 これは大変な事態である。
 恒浪牙は眠る幽谷を前に頭を抱えた。

 何故甘寧が作り上げた器の基礎にされた彼女が、《自ら》自我を再構成して表に現れたのか。
 原因に心当たりは幾つかある。
 だがそれらは全て、甘寧の術が完璧であれば絶対に起こり得ないことだ。

 恒浪牙自身の仙術の全ては甘寧のそれを基本としている。
 甘寧の術を見、徹底的に仕組みを調べ尽くし、更に手を加えてがらりと変え、自分の術とした。
 呂布が恒浪牙の術に対抗出来なかったのも、元々彼女の敵わない者の術から編み出したものだったからだ。
 自分よりも優れた人形を作り出せる甘寧の術はいつも何でも完璧だった。昔程の力が無くとも、己の術に生じる欠陥に気付かぬことは有り得ぬ。

 そう……彼女の衰えが、恒浪牙の思っている以上に重くなければ。

 恒浪牙はすぐに否定した。
 ……いや、拒絶した。
 有り得ない。
 あの自由気儘に過ぎる九尾の狐が、こんなにも衰えるなど断じて有り得ない。

 色々と面倒なこともあるが、息子のみならず、ただ姪の夫であるだけの恒浪牙にまで身内として心を砕いてくれる甘寧に恩義を感じているし、術を盗ませてくれた彼女を尊敬してもいる。

 いつか恩に報いなければならない。
 そう思えばこそ、伯母が己の術の不備に全く気付かぬなど――――そこまで弱っているなど、到底受け入れられなかった。

 なれど……これは、そうでなければ説明がつかぬ。

 恒浪牙とて、受け入れるべきだと分かってはいるのだ。

 もう、かの玉藻は近くにいる。
 利天達は――――もう、彼女の手に堕ちただろう。

 甘寧は永い時を越え、今再び玉藻と相見えようとしている。
 そして、今度こそ封印ではなく、命を捨ててでも全てを完全に終わらせんと覚悟している。

 己のすべきは、妻の代わりに、あらゆる面で伯母の援護をすることだ。
 倒れて目覚めたあの瞬間から尚香に成り代わっていると思われる白銅や、今なお金眼の邪に打ち勝てずにいる劉備と、劉備が向き合えない原因の一部である関羽――――手遅れになる前に、解決させなければならぬ。

 最後まで、どんなに小さい失態も赦(ゆる)されない。
 万全を期して対峙しても打ち勝てるか分からぬ程の凶大な相手なのだ、あの方は。

 恒浪牙の仕損じは大いなる悲劇を招く。回避する為にもこれを事実と思い、臨まなければならない。

 だが――――。


「……正直、これは堪えるわー……」


 大切な存在の喪失は、酷く耐え難いものだ。
 目を伏せ、眉間に拳を当てる。

 恒浪牙は、捨て子だった。
 自らを捨てた両親の顔など覚えていない。
 まだ人間であり、利天とも出会っていなかった頃、図々しくも自分を頼ってきたことがあったが、歯牙にもかけなかった。適当な谷に置き去りにして、山賊に襲わせた……と朧気ながら辛うじて記憶している。
 憎んでいたというのもあるが、血の繋がった両親に対し何の感情も無かった。

 だから、親に対する愛情というものが、恒浪牙――――華佗という人間には全く分からなかった。

 普通に生まれて普通に生きていたら当たり前であったそれを教えてくれたのは義父と、甘寧である。
 彼らが恒浪牙にとって肉親のように近い存在だった。

 義父が死んだ時と同じ、身を裂かれるような痛みと、心臓を締め付けられるような悔しさをもう一度――――いいや、それ以上の苦痛を自分は味わうことになる。
 義父は己の為すべきことを為し、死んだ。
 しかし甘寧はそうはいかない。
 これ程に弱っているのなら……恒浪牙がどんなに奮闘しようと、甘寧は無駄に命を散らしてしまうかもしれない。

 甘寧が成し遂げられなければもう誰にも最凶を止められない。
 この世は玉藻によって凶大な災禍に掻き乱され、絶望に澱んだ凶暴な混沌と化してしまう。
 金眼とせめぎ合い苦しんでいる劉備だってどうなるか……。
 そんな結末など誰もが望まない。

 どうにかして、それだけは回避しなければならない。
 だから、自分が何に於いても見誤るなどあってはならないのだ。
 恒浪牙は舌打ちして、前髪を掻き上げた。
 さすがに考えることが多すぎて、最近、頭がやたらと重い。


「大丈夫だ。なるようになるさ。きっと……悪い結果には、なりはしない」


 一人希望めいたことをぼやき、深呼吸した。

 少しでも、良い未来を引き寄せたい。
 その為には幽谷の問題を今のうちに解決させておかなければ。

 今自分がしていることの全ては決して無駄な足掻きではないと、恒浪牙は信じたかった。



‡‡‡




 ぐらり、と身体が傾ぐ。
 受け止めたのは太い木の幹のような腕だ。


「大丈夫か、お袋」

「……ああ。少しよろめいただけだ」


 体勢を立て直そうとして、またよろめく。
 舌打ちしてその場に座り込んだ。
 蒋欽も屈み込む。厳つい顔は更に厳めしくしかめられ、低く唸る。


「お袋……やはり、」

「問題は無い。暫く休めば、すぐに動ける」


 ただ……歳なだけさ。
 案じる息子に自嘲めいた笑みを返し、甘寧は深呼吸をみたび繰り返した。

 ……時間が無い、な。
 心の中で独白する。
 だが、まだ《彼女》は現れていない。気配だけが感じられるだけだ。
 この近くに確かにいる。息を潜めて機会を窺っている。


「お袋、動けるようになったら天幕で休め」

「そうだな。そうしよう。いやぁ、歳は取りたくないものだなぁ」


 わざとらしいおどけた声音に、蒋欽は申し訳なさそうに眦を下げる。
 その禿頭(とくとう)を撫でてやり、甘寧は微笑んだ。

 これは息子達の所為ではない。
 オレの罪の重さ故のことだ。
 だからこれは、自業自得。
 自業自得で苛まれる身に更に罪を塗り重ねる。
 それまでは、死ねない。

 死ねないが、あまり遅いと困る。


「……そろそろ、オレに会いに来てくれても良いんじゃねえかなー……」


 空を仰ぎ、ぼやく。
 青い双眸は深い悲しみを湛(たた)える。
 ゆらゆらと揺らぐ色を見た者は、数える程しかいない。

 蒋欽は、その一人だ。
 狐狸一族の中で唯一母の犯した罪を知る彼は、故に母を案じ、己自身も罪の意識に囚われる。

 遙か昔、甘寧は大罪を犯した。
 されども甘寧以外誰も、それを罪と認めない。
 甘寧の苦しみを思いやり、誰にも罪を持たせない。
 それこそが罰であるとも知らず、甘寧を苛む刃となっているとも知らず――――。

 甘寧の罪から生じた、誰も知らぬ狐狸一族の《虚しさ》を知る限られた者達は、甘寧を助けるつもりで温情をかけ、無自覚に甘寧を厳しく責めている。
 甘寧にとって、その罰は甘い。
 己の背負った罪は、もっと重い。
 彼女はそう思って譲らない。

 蒋欽は痛ましい甘寧の心を思い、奥歯を噛み締める。

 ひょっとすると、彼女が覚悟しているそれは、彼女にとって最良の贖罪(しょくざい)なのかもしれない。



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