7
呉の都督、周瑜。
今、眼下にて幽谷を見上げ困惑する猫族の男は、そのように名乗った。
都督――――国の有する軍を一任されている程の男が、猫族だとは。
呉は猫族には寛容だったのか?
いいえ……それは無いわ。
随分と昔の話になるが、まだ暗殺を生業としていた頃に呉の豪商が対象になったことがある。殺すまでには少々時間がかかってしまい、結果色んな人間の会話が耳に流れ込んでくる機会が多かった。
その中で、珍しい上玉の十三支の娘を捕まえて痛めつけたり犯して遊んでいるという話もあった。土着の商家の息子であったから、やはり猫族に対する偏見はこの地にも根強く残っていると考えて良いだろう。
では、呉の国主が猫族に友好的な人物なのか……いや、今はそんなことどうでも良い。
殺そうと思えば、殺せるか。
幽谷は周瑜の力量を己の下と見、解放した。彼が手を伸ばすのを避け、天幕を出ようとする。
だが、
「……っ!?」
ぐらり、と眩暈。
幽谷は頭を押さえその場に屈み込んだ。目覚めたばかりだからだろうか。
動けぬ彼女に周瑜が駆け寄る。
「おい、幽谷! 大丈夫かっ?」
「……」
この男は、やけに私に親しげだ。
私は周瑜という男の猫族など知らない。一切記憶が無い。
……いや、そもそも、私はどうしてここにいる?
私は官渡で死んだ。その筈だ。
けれども私はここにいる。ここに生きている。
何故?
「……関羽様、は?」
「は……『関羽様?』」
己が生きているというのなら、今、主は、劉備は――――猫族は、どうなっている?
こんな所で眩暈に足止めされている場合ではないのではないか。
幽谷は周瑜を押し退けた。
確かにあの時、幽谷は金眼と共に死んだ。間違い無い。
だがこうして生きて、呉の都督が側にいた。
どうなっている?
私は死んでいなかった?
であれば私の意識の無いうちに、一体何が遭ったというの?
猫族は今平穏に暮らせているの?
分からない。
それを今、確かめに行こう――――。
「――――駄目だよー、幽谷のお姉さん」
軽やかな、耳に懐かしい声がした。
背後だ。
周瑜が驚いて幽谷から離れる。
間に滑り込んできたのは真っ黒な手だ。それが幽谷の手を掴み、引き寄せる。
「……あなた、封ら」
「今は封統。封統って呼んでねー、幽谷のお姉さん」
名を呼ぼうとした幽谷を、最初に創り出された霊亀の器は遮った。
封統……また、名前が変わっている。
名前だけではない。姿もだ。金の目を隠した彼女は、外見年齢が上がり、以前のような無邪気な少年ではなく、闇夜をまとう妖艶さも微かに放つ賢しそうな娘だ。本人は昔のように笑っているつもりだろうが、少しの色気があるだけで見違えた。
幽谷は己の舌に馴染ませるように数度彼女の名前を繰り返した。
「……封統。私は一体、」
「ひとまず天幕から出ようよ。部外者のこれに聞かれる訳にはいかないし」
『部外者のこれ』とは周瑜のこと。
封統は、周瑜と面識があるようだ。
二人を見比べて眉根を寄せると、封統は幽谷の手を握ってさっさと天幕を出てしまおうとする。
当然、周瑜は待ったをかけた。
「待て! こいつは一体どうなってるんだ。オレの知る幽谷とは別人じゃないか」
封統は足を止めた。
大袈裟に溜息をついて見せて、肩越しに周瑜を冷めた目で睨む。
「言っただろ。幽谷の家族でもなければ恋人でもない、全くの部外者が聞いて良い話じゃない。お前が知る必要が何処にあるんだよ。僕ら狐狸一族は甘寧の意向に従う。ちゃんとこの戦いに参加して申し分ない働きをすれば都督殿に文句はあるまい? ……ああ、それとあれか、狐狸一族にはずっと呉に寄り添っていて欲しいんだっけ? でも、それと幽谷の深い事情は関係が無い。周瑜が知る義務や権利、知ろうと思う理由だって無いじゃないか」
何処か貶すように、封統の言葉は冷ややかだ。
周瑜は封統を睨んだ。
その金の眼は険を帯びている。
彼がどうしてこんな態度を示すのか、幽谷には分からなかった。
幽谷と違い、封統はその理由を分かっているようだ。
「幽谷のことを知りたいんならさぁ、先に自分の気持ち確かめたら? うちの長、今のお前に幽谷や関羽をやる気は無いだろうね」
お前が本当に欲しがってるものは、何なんだ。
それもやはり、冷め切った声音だった。
だが周瑜に嫌悪を抱いている風にはとても見えない。
冷たいが、親が子を突き放すようにして叱りつけている風に、幽谷には見えた。
人間も猫族も憎んでいる封統が……と、意外に思った。
「じゃ、このことは周りの人間に言うなよ。言えば幽谷、この戦から離されちゃうかもしれないね」
封統は幽谷の手を引き、天幕の外へ出た。
外は、物々しい雰囲気に呑まれている。
戦を間近に控えた独特の緊張感の底に溜まる重苦しい不安、恐怖、落胆、諦念――――眼前を通過する兵士のどれにも覇気が無い。戦って勝とうという気概がまるで感じられない。
さながら最初から敗北が決定づけられた軍の様相だ。……いや、せめて一矢、願うならば道連れをという決死の覚悟すら無いのだ、何の為に呉がここに陣を構えたのか分からない。
幽谷は封統を見下ろした。
封統は周囲を見渡し、他者の目を避ける為に幻覚をかけて呉の状況を簡単に説明した。
幽谷は聞き手に徹し、話が終わったと見てから問いかけた。
「呉と猫族が同盟を組んで曹操軍と相対する……ということは、私達に関する記憶は、」
「クソ天仙と泉沈が、余すこと無く塗り替えたよ。ただ、劉備が何らかの理由で思い出してる」
クソ天仙……とは、多分かの地仙のことだろう。心から慕っている天仙淡華に『クソ』なんて付ける訳がない。
あの人……天仙になったのね。
恒浪牙がどうなったのか訊ねてみると、忌々しそうに夫婦に戻って暮らしているとのことだった。
淡華は恒浪牙のことを忘れているのでは……と、妙幻に身体を奪われていた間に共有出来た僅かな情報を覚束ない記憶から掬(すく)い上げる。
確か……そうだ。淡華は自らの記憶を棄(す)てたのだ。
粉砕して人界へ棄てた記憶を恒浪牙が長年拾いながら旅をしていた。
それが、何かあってその形に落ち着けたのだろう。解決して、彼の望むようになったのなら、それで良い。
幽谷はそこで、劉備が幽谷の記憶を取り戻した『何らかの理由』について訊ねた。
「クソ天仙は金眼の力を解放して成長を取り戻した衝撃によるものだって言ってる。けど、クソ天仙はそれも考えた上でちゃんと術をかけた筈だ。術者自身解けてしまうだろうと術をかける時から予想はしていたみたいだけどさ、あいつの術があんなにも呆気無く解けて、その名残すらも劉備の中に残っていないってのがどうも納得行かないんだよね。ムカつくけど、あいつの術はあいつが思う以上に簡単に解けるようなものじゃない。それは確かだ。だからこそあそこまで綺麗さっぱり消え失せてるって言うのは――――」
「……待って。金眼の力を解放させたとは、どういうこと?」
幽谷は眉間に皺を寄せた。
だって、私はあの時確かに金眼と共に――――。
幽谷の反応に、封統はああ、と納得した。
「そっか。幽谷のお姉さんは知らないか。金眼の奴、小賢しいことに劉備に自分の核を残してたんだよ。お姉さんが取り込んだのは、囮。誰もが金眼にまんまとしてやられたって滑稽な結末だったのさ」
「残念だったね」封統は淡泊に言い放つ。
幽谷は全身が冷えた。
嘘……そんなことって……。
私のしたことが、無駄だったなんて。
私の死は無意味だった。
では劉備様は、今も金眼に苦しめられている?
――――行かなくては。
身を翻した幽谷に封統が冷たい声をかけた。
「待ちなよ、死人」
「……死人」
足を止めた幽谷の前に、封統が回り込む。
黒の隻眼が幽谷を見上げる。
「そう。あんたは死人だ。自分で選んで死んだんだ。死んで、狐狸一族の長に回収され狐狸一族として蘇らされた。生まれ変わったと言っても良い。今更劉備に会いに行って、どうなる? 劉備以外は皆お姉さんのことを忘れてる。そうしろと、お姉さんがクソ天仙に無理強いしたんじゃないか。それを自分で無駄にするつもり? 自分勝手にも程があるんじゃない? あいつも泉沈も、どんだけ苦労して願いを叶えたと思うの?」
幽谷は言葉を返せなかった。
「お姉さんはもう、現世に関わっちゃいけないんだ。今でこそ何らかの理由で表に出ているけれど、その身体は幽谷のお姉さんを基にして作られているだけであってお姉さんの物じゃない。新しい幽谷の物なんだ。今の劉備達に関わっているのは新しい幽谷であってお姉さんじゃない」
死を選んで存在すら大切な人達の心から、世界からも抹殺される。
私の全てが無かったことになった世界。
これが、私の望んだこと。
幽谷は目を伏せ、深呼吸を二度。
「……ごめんなさい。そう、私は死人。この世に関わってはいけない部外者だったんだわ。目覚めたばかりで状況も上手く理解していなかったから、自分が思う以上に混乱していたのね。どうすれば、私は在るべき状態に戻れるのかしら」
「さあ……一応クソ天仙にも相談してみるけど、多分それはお姉さんにしか分からないと思うよ。狐狸一族の幽谷は、お姉さんの自我を基礎に新しく作られた人格で、僕と泉沈みたいな別々の人格じゃないんだし。僕の感覚とは勝手が違う。一度、狐狸一族の幽谷の記憶を呼び起こしてみたら? 基礎になったお姉さんなら望めば共有出来ると思うよ」
確証は無いけどね。
封統は肩をすくめる。
幽谷は渋面を作った。
望めば共有可能と言われても、いきなり言われて実践出来る筈がない。そもそも、望めばなんて簡単に言うがやり方が分からない。
封統はその反応も、予想していたらしい。
「ま、すぐに出来るとは思ってないよ。それまでは僕と一緒に行動してて。幻術で見えないようにしてあるから。取り敢えず、クソ天仙のとこに行くまで一人で頑張ってみてよ」
「分かったわ。それまでに、あなたの言うようなことが出来れば良いのだけれど」
「出来なかったらクソ天仙に無理矢理にでも引っ込ませるしかないかな」
封統は幽谷の隣にぴったり寄り添って、恒浪牙の姿を捜し始めた。
幽谷は封統に逆らわなかった。
正直、まだ理解が追いつかなかったから、歩きながら詳しく新しく蘇った幽谷について説明してくれる封統の配慮が、幽谷には有り難い。目覚めてすぐ彼女が来てくれて、本当に助かった。
また戻らなければならないと思うと名残惜しいが、封統が言うように死人が干渉すべきではないのだ。
新しい幽谷が、私の代わりに猫族の助けとなってくれることを、願うしかない。
幽谷は、自らにそう言い聞かせた。
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