そこは、ゆらゆらと揺らめく揺り籠だ。

 長い間ここにいるような気がする。
 しかし、短い間ここにいるような気もする。

 ここは、一体何なのだろう。
 分からない。……でも、この身にこの場所は良く馴染む。心地良い。このまま眠っていたいと思う程に。
 ここがどういう場所なのか、どういう意図で誰に作り上げられた揺り籠なのか分からなくとも良かった。
 この揺り籠は心が安らぐ。とても、とても離れ難い赤子の為の寝床。

 自分は赤子なのだろうか?
 違う。赤子の時期はとうの昔に過ぎている。
 ではこの揺り籠に眠る時まで、幾(いく)つだっただろうか。
 思い出せない。
 そもそもそれは重要な情報だっただろうか?

 いいや、前の《私》は年齢など気にしていなかった。漠然と、他人の推量による適当な年齢を実際のそれだとしていた。

 《私》の情報は、この空間に必要だろうか?

 そんな風に思えたのは、恐らく初めてだ。
 どうしてだろう。
 今まで気にしたことのない些末な疑問だ。
 芽生える筈もなかった疑念だ。

 この揺り籠に眠る限り、自分に思考は、自我は必要無い。


 どうして今になって、自分の年齢に小さな疑問を覚えたのか。


 それが、きっかけだった。
 小さな疑問は膨れ上がり彼女に働きかける。彼女に思考を促す。

 誰がそうしているのか、分かった。
 自分を促すのは、他でもない自分だ。
 揺り籠の異変を察知した自分が、自己防衛の為に自らを起こそうとしているのだった。

 そうしなければならない事態に、揺り籠が陥ったから。

 目覚めろ。
 目覚めてしがらみを自らの手で取り去れ。
 この快適な揺り籠を守る為には、お前が《もう一度》目覚めなければならない――――と。

 揺り籠を守る為。
 揺り籠が壊れれば、この安らぎは失われる。
 それは、嫌だ。何としても守らなければならない。
 心地良く眠り続け、迎えるべき終焉を迎える為に。

 私はここでずっと眠りたい。
 眠っていなければならない。
 消えゆくその時まで眠らなければ、ならない。
 そう自分に課したから。

 この揺り籠を守る、その為なら――――ほんの一時の目覚めくらい、自らに赦(ゆる)そう。

 揺り籠を守りきってすぐにまたこの揺り籠で眠ってしまえば、良いのだから。



 彼女は、意識の腕(かいな)をゆっくりと伸ばした。




‡‡‡




 何をしたのか分からなかったのは、一瞬だけだ。
 煮えたぎる感情のままに動いた周瑜は、幽谷の顔を間近に見下ろし、茫然とした。

 口付けた。

 オレは、幽谷に口付けた。

 幽谷の口から出た夏侯惇という男の名前。
 更に続いた、夏侯惇に対する乞うような甘い希求の言葉。

 それが、我慢出来なくて――――身体が動いた。

 頭の中が真っ赤に染まったあの瞬間、己の中に生まれた感情は激しく周瑜の中で燃え上がった。
 未だ、種火は内にくすぶっている。
 きっと彼女がまた同じ言葉を言おうものなら、彼も同じことをするだろう。


 それの、意味するところは。


 分からない。
 周瑜は顔を押さえ身を起こした。

 どうしてあんなことをした?
 分からない。理由が見つからない。

 自分が伴侶にと望むのは関羽だ。
 猫族の、関羽。
 関羽個人を周瑜は気に入っている。見目も良い、性格も良い、武力も申し分ない。

 関羽を手に入れるには邪魔な劉備も、尚香と結婚する。
 ならば――――と、内心好機と思っていた。
 今は戦に集中すべき時と頭を切り替えているが、暇を見つければ劉備を失い傷心の関羽を慰めて……との算段くらいはしていた。

 だのに、これである。

 幽谷に、女性だからと他と同じように言い寄っていたのは事実。だがそこにさほどの感情は無かった。

 狐狸一族では初めての、女性二人。幽谷はその片方。
 恋愛に疎いだけでなく処世術にもろくに長けていない、ぼんやりとしたところのある彼女が、自分に対してはっきりと警戒し、嫌悪を滲ませて攻撃してくるのが少しだけ面白かっただけだ。
 燃え上がらぬと分かり切っていたただの小さな火遊びに過ぎない。

 そもそも幽谷は、猫族ではない。
 神の一族の娘と、金眼の子孫と蔑まれる猫族の男が子供をもうけるなど、有り得る話だろうか。

 いいや、きっとそれは起こり得ない。

 人間と猫族の間にだって子供が出来にくいのだ、正邪の女と男がどうして子供を成せようか。

 周瑜にとって、幽谷は伴侶の資格を持っていなかった。
 それなのに、これでは、嫉妬しているようではないか。

 幽谷が曹操軍に向かわせないことで、狐狸一族の協力を少しでも得られる状況にしておきたい。
 夏侯惇に執拗に狙われ、狂気に近い程の激情を向けられ、心底から怯える幽谷を憐れんでいるということもあった。

 周瑜の望みも叶えられぬ幽谷に、恋愛感情など、抱く訳があるまい。

 周瑜が関羽に望むのは、《家族》だ。
 夫婦となり、子供を産み――――かつて周瑜が暮らしていたような生活を送る。
 そうして、かつて失われた《猫族の桃源郷》を、幼かった周瑜が両親と共に暮らした地に、再び築き上げたいのだ。
 それこそが、周瑜がずっと秘めていた願いだった。

 その願いに、猫族ですらない幽谷はそぐわない。

 一個人として見ればそれなりに気に入っている。周瑜にとっての幽谷は、それだけだ。

 ようやっと見つけ出した、夢を叶える為の存在は関羽だ。幽谷ではない。

 そう、幽谷ではないのだ――――。

 荊州猫族の鎖に縛られた己には時間が無い。
 なればこそ、急がなければならない。

 だから、有り得ない。
 今のは有り得ない。
 血迷ったのだと、己を納得させた。

 幸い、幽谷は意識も白濁としている。このまま周瑜が白を切り通せば無かったことになる。
 唇を拭い、周瑜は幽谷の様子を確認しようと寝台に歩み寄った。

 直後である。

 幽谷の腕が一瞬で周瑜の首を捕らえた!


「なっ……!?」


 抵抗する暇も無く寝台に引き込まれる。
 馬乗りになった幽谷は周瑜の頸動脈のある辺りに深く指を食い込ませ冷たく睨め下ろした。


「幽谷……起きてたのか」

「……」

「……どうした?」


 幽谷は、忌々しそうに眉根を寄せた。


「貴様は何者だ。何故私の名を知っている」


 冷え切った声で誰何(すいか)する。
 周瑜は目を剥いた。


「お、おいおい……何、冗談を言ってるんだ。怒ってるのか? さっきのこと」

「私は貴様など知らぬ。問いに答えろ。さもなくばこのまま頸動脈ごと肉を抉り取る」


 どうなっている?
 周瑜は普段とはまるで違う幽谷を見上げ、薄く口を開いた。


「……アンタ、誰だ?」

「……」

「オレは周瑜。呉の都督だ」

「呉の都督……?」


 幽谷は目を細め、繰り返す。
 周瑜の名にも、呉にも、彼女は怪訝そうだ。

 ……嫌な予感がした。
 幽谷の眼差しは、周瑜の記憶には無い。
 これは――――暗殺者の目だ。
 周瑜が少しでも怪しい動きをすれば即座に指が肉を抉るだろう。一片の迷いも無く。

 ……これは、誰だ。

 よもや、見知った二人に、立て続けにこんなことを思うなど。
 一体この陣営で何が起こっているというのだろう。


「アンタの求め通りに名乗ったぜ。そっちは正体を明かしてくれないのか?」


 幽谷はつかの間沈黙した。
 周瑜は真っ直ぐに見据えて返答を待った。
 ややあって、


「犀家の饕餮(とうてつ)……そう認識していれば十分だろう」


 そう、色違いの瞳に闇を潜ませ、答えた。



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