5
劉備は大丈夫だろうか。
櫓の上で兵士達の動きを眺めながら、関羽はぼんやりとしていた。
甘寧へ謝罪へ向かった劉備。
本来ならば謝罪するべきは関羽だ。
……とは言え、関羽は自分の言葉が間違っていたとは思わない。
だって、劉備は大事な猫族の長だ。加えて彼の側には大事な呉の姫孫尚香が寄り添っている。どちらも危険に晒すことは出来ない。
確かに周瑜の言葉も分からないではない。
だけど、あれは二人の為の発言であったのだ。
だのに――――甘寧は機嫌を悪くして軍議の場を去った。
わたしは甘寧様を馬鹿にした訳でもないのに……。
これで狐狸一族が力を貸してくれなかったら、どうしよう。わたしの所為だわ。
理不尽にも思えるが、彼女にこちらの感覚は通用しないのだろう。
ここはわたし達が合わせるべき……なのは分かっているけれど。
本当に甘寧に劉備を任せて良いのか、分からない。
はあ、と溜息を漏らした。
すると、背後で足音。
「少しよろしいですか、関羽さん……」
「え? あ……尚香様」
振り返って、関羽は怖じた。
尚香の顔は険しい。重苦しい怒気をまとわせ、近付いてくる。それは殺気にも思えた。
彼女は、こんなにも危ない雰囲気の姫君であっただろうか。
今の尚香はまるで……重い戦斧だ。
一撃一撃に必殺の衝撃を放つ危険な武器を思わせるような娘ではなかった筈だ。少なくとも、関羽の記憶の中にいる孫尚香は。
思わず一歩後退すると、尚香は片目を眇めた。忌々しそうに関羽をキツく睨み、小さな口を開く。
「あなた……どういうおつもりですか?」
「え? どういうって……」
尚香は鼻を鳴らす。
「劉備様は猫族の長ですよ、皆の士気のためにも、戦場にいらっしゃるのは当然です……」
……近くにいなければならないのに、遠ざけようだなんて……一体なんのためだと……。
ぼそぼそ言いながら、憎らしげに睨めつけてくる。
ぞくりと、冷たいモノを背筋に感じた。
「それではお兄様は…………全然駄目だわ……」
「あ、あの、尚香様……?」
何……何なの。
今目の前にいる尚香様は……尚香様なの?
「そ、その、尚香様のおっしゃることもわかるのですが、わたしは劉備と尚香様に戦場ではなく、安全なところに……」
「うるさい……なにもわかっていないくせに……」
「え?」
尚香は舌を打ち側の柱を殴りつけた。
柱が、微動し軋んだ。
驚く関羽を、尚香は舌鋒(ぜっぽう)鋭く罵った。
「劉備! 劉備! 劉備! 劉備! 劉備!! そればああっかり!! あんた一体なんなの!? 私たちの邪魔しないでくれる!?」
「しょ、尚香様……?」
「ブスがお兄様に色目使ってんじゃないわよ! 汚らわしい! 汚らわしい! 汚らわしい! どいつもこいつもクズクズクズクズクズばっかり! あの御方と私とお兄様以外存在する価値がない! 特にあんたは何の価値もない! このゴミ! ゴミクズ! 生きてる価値がないんだから邪魔もしないで! 何も言わないで! 視界にも入らないで! それが出来ないなら死んで死んで死んで死んで死んで、ねぇ、お願いだから早く死んでええええ!!!」
怒濤だ。
関羽は圧倒され、その場に座り込んでしまった。
尚香は気圧された関羽を見下し、くっと口角をつり上げる。恐ろしい嘲笑は暗く翳(かげ)り、狂気が滲んでいる。
これは……誰?
尚香様なの?
尚香は鼻を鳴らし、大股に櫓を立ち去った。
後に残された関羽は、己の手を見下ろす。
震えている。手だけじゃない。総身が震えている。
恐ろしかった。混乱した。
頭が事態に追いつけなかった。
何なの、今のは。
「ど、どういう……ことなの? あ、あれが、尚香様……?」
一体どうしたと、いうの……?
それに、尚香は何度か『お兄様』という単語が出た。
尚香の兄と言えば、孫権。孫権が、どうしてあの会話に出てくる?
それに、『あの御方』って、誰?
……分からない。
関羽は暫く、その場に座り込んだまま、茫然としていた。
‡‡‡
腕の中で、幽谷がぐったりとしている。
顔は青白く、色違いの双眸は右に左に忙しなく動いている。
剥き出しの肌は汗でぐっしょりと濡れ、温度を奪われて、長江の水温よりも冷たい。
一人では立てない状態の幽谷を支えながら、周瑜は櫓を見上げる。
上には尚香と、関羽がいる。
尚香は櫓に上る関羽を見つけた途端、幽谷にその場に留まるように言い置いて追いかけた。
しかし幽谷は彼女に従わず、こっそりと尚香を追いかけた。
その結果、尚香の尚香とも思えぬ暴言を聞くこととなった。
周瑜は尚香と別れた直後に幽谷に追いつき、共に追いかけたから、彼女の暴言も聞いた。
尚香を知る周瑜でも聞いたことの無い、醜い罵倒を。
あれは本当に尚香なのか――――混乱する周瑜の側で幽谷は激しく動揺した。激しい痙攣を起こしたかと思えば今の状態だ。
「しょ、こう……さ……ま……」
「幽谷。しっかりしろ!」
「あぁ……う……っ」
「幽谷!」
頭を抱え、呻く。
時折力無く首を左右に振る。
どうなってやがるんだ一体!
尚香も異常だが、幽谷も異常だ。
どちらを取るか――――周瑜は逡巡し、舌打ちして幽谷の身体を抱き上げた。
尚香が降りてくる前にと、急ぎ足に自身の天幕へと向かう。途中で恒浪牙を捕まえられれば良かったが、彼の姿は何処にも見当たらない。まだ、劉備と共に甘寧のところにいるのだろう。
周瑜の寝台に寝かせ、顔色を見る。
瞼はキツく閉じられ、苦しげに身動(みじろ)ぎしている。
周瑜は頬をぺちぺちと軽く叩いて幽谷を呼び続けた。
「幽谷。しっかりしろ、幽谷!」
「うぅ……あ、ぁ……くう……っ」
「幽谷!」
「……っは……」
びくんと身体が跳ね上がり、瞼がゆっくりと上がる。だが焦点は定まらぬまま。
意識を引き戻さなければ、危ない。
周瑜は強く感じ先程よりも声大きく呼んだ。
「幽谷!! オレが分かるか?」
「……」
苦痛に潤んだ色違いの瞳が空をさまよう。ややあって、周瑜を捉え、瞬きを繰り返した。薄く口を開いた。
きっと周瑜の名前を呼ぶのだろう。意識が戻りつつあるのだと、そう思って周瑜は安堵した。
だが――――違う。
「……夏侯惇、殿……?」
「は――――」
周瑜は、我が耳を疑った。
‡‡‡
幽谷は、一人の人名を確かめるように繰り返す。
『夏侯惇殿』――――それは、彼女を執念深く狙う男の名。幽谷があんなにも怯えていた筈の男の名であった。
それを、縋るように、求めるように、何度も何度も繰り返すのだ。周瑜を見上げて。
何故。そんな甘い響きを、悲しげな響き含んでいるのか。
何故。
何故。
何故。
何故そんな声で『夏侯惇殿』などと、親しげに求めるのか!
幽谷の言葉は、次第にしっかりと聞き取れるようになる。
聞きたくない言葉が流れ出る。
止めろ。
嬉しそうで名残惜しそうな魅惑的な声に乗って。
止めろ。
「夏侯惇、殿……嗚呼……これは夢ね……」
なんて、幸せな夢。
虚空で消えゆく時を待つだけの私の身に剰(あま)る餞別(せんべつ)……。
「――――」
聞いた瞬間、頭の中が真っ赤に染まった。
自分を夏侯惇と見間違えた挙げ句、それを……幸せな夢だと?
身体の温度が一気に上昇する。
幽谷の身に、意識に、何が起こっているのか――――そんなことはどうでも良い。
ただ、ただ、夏侯惇に対して愛しさを滲ませる彼女が、許せない。
今眼下の彼女が、周瑜の知る幽谷と到底思えぬとしても、だ。
……もし、これが趙雲だったとしても、諸葛亮だたとしても――――同じだったやもしれぬ。
周瑜にとって、幽谷の愛しげに呼び求める名が自分以外の男のものであることが、酷く厭(いと)わしかった。
彼のうちで膨れ上がった激情を、彼は知っている。知っている筈だのに、この時理解していなかった。
否、それ以前にその激情の根本に気付いてすらいない。
己の本心を全く解せぬまま、周瑜はたぎる激情に突き動かされ幽谷に覆い被さった。
その様は、誰が見ても嫉妬に狂う男のそれである。
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