全身を、灼熱の粘着質な泥水が駆け巡っている。

 血と共に血管を駆け抜ける、ただただ不快で苦しいそれは血と同じく心臓に至り、心臓によってまた全身へと送り出される。
 けれども、血と違ってその泥水は心臓で煮えたぎり温度を上げる。
 血と違って泥水は明確な意図を持って、主から身体を奪わんとする。
 枝分かれした無数の細い血管であろうと入り込む。

 浸食されていく感覚に、どれだけの間抗っていただろう。

 李典は寝台の中で寝返りを打ち、歯を食い縛る。

 この、身体に嫌なくらいに馴染んだ泥水の名は、憎悪、憤怒、悲哀、希求……色んなものが入り交じって澱んでしまったどす黒い激情だ。
 連日激しい泥水に攻め苛まれ、李典の消耗は著しい。

 突然の異変に、李典の周囲は一様に警戒した。
 彼は、疫病にかかったのではないか、と――――。
 誰もが李典から距離を取った。

 夏侯惇や夏侯淵、それに曹操が時折様子を見に訪れるのが、せめてもの救いだろう。

 彼らが訪れると、外部に気取られることを恐れて泥水は鎮まった。李典の心臓の中でじっとなりを潜めている。


「李典。具合はどうだ」

「ぁ……っ」

「無理に話さずとも良い」


 天幕を訪れた夏侯惇は側に腰掛け腕組みする。
 思わしくない李典の顔を覗き込み、渋面を作る。
 曹操軍の中で李典に最も心を砕いてくれている夏侯惇は、我がことのように苦しげな顔をする。

 そんなお顔をなさらないで下さい。
 その必要は無いと言いたいのに……この身体ではままならぬ。


「先程、騒ぎがあったのは覚えているか」

「……?」


 あっただろうか……いや、苦痛に耐えていた間のことは、分からない。


「我が軍に、呉と通じていた者がいたのだ」


 そんなまさか。
 李典は即座に否定した。
 現時点で、曹操軍は数で利があり、水軍に長けた将も荊州軍にいる。
 その中に甘寧の息のかかった者がいないこともすでに確認済みだ。人間の男として混じっていた甘寧を知る人間も、甘寧の奔放さの影に隠れた慧眼を恐れ、味方することを強く拒んでいる。

 今のところ、兵士が不安定な船上に慣れれば勝てない戦ではない筈だ。

 それなのに、どうして呉軍に通じる者がいようか。


「……ぉ……どういぅ、ことですか……っ」

「起き上がるな。今話してやる」


 夏侯惇は李典の肩を押し、騒動について語り始めた。
 曰く、陣の中に現れた不審な人間が彷徨いており、兵士が尋問したところ、慌てて逃げ出したという。
 追いかけてみたが夜の闇に紛れては難しい。
 それでも仲間に手伝わせて陣中を探し回った。
 不審者は見つからなかったが、兵士達の中で一人、不審な書状を拾った者がいた。

 その書状は、呉の都督から内通者への指示が書かれた物だった。

 内通者は二人。
 蔡瑁(さいぼう)と、張允(ちょういん)。
 どちらも荊州の武将であった。

 そこまで聞いて、李典は馬鹿だ、と叫びたくなった。
 有り得ない!
 荊州の武将の中で一際甘寧を恐れ嫌悪していたのは蔡瑁だ。むしろこれを機に甘寧を殺さんとしていたのだ。彼の態度に嘘は無いと李典も利天も判断した。
 そしてその場には曹操もいた筈だ。彼には蔡瑁の態度の真偽が分からなかったと言うのか!

 まさかそんな筈がない。
 李典は、少しばかりの希望を持って、夏侯惇の言葉を待つ。


 しかし。


「この二人はすでに、斬首された。これでもう呉にこちらの情報が渡ることもあるまい」

「――――」


 なんて、ことを……!
 少し前までの曹操ならこんな浅慮な行動はしなかった。
 畜生!
 李典は心の中で罵倒した。

 どうするんだ、これから。
 蔡瑁らがいなければ呉の水軍とまともにやり合える兵士は育てられないではないか。
 厖大(ぼうだい)な兵力で霞んでしまっているが、厖大であればこそ、揺れる足場に正しい訓練も積めなかった彼らが地団駄を踏んで動きが乱れた時の致命的な隙は、誰にも補えぬ。
 その問題を、彼らはあまりに軽視している。

 李典は起き上がった。
 この事態を、放ってはおけない。
 幸い、訓練法などは念の為にと李典のフリをした利天が蔡瑁に細かく教わっていた。
 利天に指示を仰ぎながら自分が訓練させれば、少しはましかもしれない。
 いや、もう自分がやらなければこの戦は不利になる。
 足場に慣れなければ、船上に於いて正しい動き方を身につけなければ、この戦、数の利は一転して害となる。
 加えて、この地域は風の向きが変わる時がある。それに乗じて火攻めなどされたら――――。


 曹操軍は完敗し、曹操の一生の恥となる。


 そんなこと、許せるものか!!

 夏侯惇が顔色を変えて止めようとするのを手で制し、李典は寝台から降りた。
 制止は夏侯惇だけではない。
 利天も、止めろと内側から叱りつけてくる。
 分かっている。
 身体を弱らせれば弱らせる程、あの女の激情が、支配の毒が全身に浸透していく。
 それを少しでも遅らせる為には安静にしていなければならない。

 分かっているけれど――――。


「止めろ李典!! 今は身体を休めるべきだ! 軍のことは俺達に任せて……」

「……っ俺が、蔡瑁殿ぁら……ぅ、く、訓練法について、聞いて、いぁ……」

「李典!!」


 曹操軍が大敗を喫すると分かっていて、何もしないでいることは、出来なかった。
 しかし、痛んだ身体は一歩進んだだけでその場に崩れ落ちた。
 夏侯惇が青ざめて李典を寝台に戻らせる。


「まともに喋れずに満足に歩けない奴が何を言っている!! 良いからお前はただ身体を休めることだけを考えろ、良いな!?」

「しかし……っ、っ、ぐ……っはあ!」


 李典は寝返りを打って俯せになり、吐血した。
 口を押さえてもどろどろとした赤黒い血が溢れ出し、寝台を汚していく。

 また、巡り始める。
 激情の泥水が、この好機にと李典を支配しようと血管を巡り始める。
 奥歯をぎりりと噛み締めて、李典は顔を埋めた。

 夏侯惇の怒号が、遠かった。
 医者を呼んでくれている。
 だがそれは役に立たない。
 人間の医術でどうにかなるものじゃないんですよ、夏侯惇殿……。

 これは、呪いだ。
 李典と、利天の意識を殺し、身体を我が物とする為の、あのおぞましい女が赤子にかけた呪い。

 呪いは誰にも祓えない。人間にも、仙人にも――――。

 当たり前だ。
 だってあの女は――――なのだから。

 だから、俺がただ抗い少しでも時を遅らせる以外に対処法は無いのだ。
 いつか来る破滅の時、《彼ら》がこの……金眼とは桁違いの大妖を再び封印する為の準備を終えるまで。

 李典は、もう諦めていた。
 自分の命は、近く彼女に支配されるだろう。そして、利天と共に、李典という男は何処にもいなくなる。

 利天は、まだ希望を持っている。
 何か……何か救う術が無いかと。兄弟の子孫から、大いなる邪を引き剥がすことは出来ないかと。


――――どちらも、そもそも自分達の運命は彼女に握られていたのだと知りながら。


 こんな状態になってしまっては、もう無理なのだ。
 こんな状態になってしまっても、何かあるのではないか。
 お互いの気持ちが、支配せんと目まぐるしく血管を駆け抜ける泥水に吸収されていく。少しずつ少しずつ、確実に浸食されていく。

 だがその前に、と諦めた李典にも譲りたくないものがある。

 曹操の大敗、たった一つ。
 それだけは……それだけは、それだけは!

 吐血は止まらぬ。
 純白の布地には赤黒いシミが広がっていく。
 それが、顔を持ったように李典には見えた。

 にたり……と。

 嗚呼、嘲笑っている。
 あの女が俺を嘲笑っている!
 李典は掌を顔に叩きつけた。
 その上に、また吐血。また顔が生まれる。

 俺の手の甲に、顔が。

 またあの女が笑っている。

 嗚呼、嗚呼、嗚呼!!
 突き刺したい。
 この手の甲を。


 いいや。


 この心臓を突き刺したい。
 突き刺して燃やしたい。
 灰となればあの女も使えまい。

 嗚呼、嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 俺を嘲笑うな。
 諦めた惨めな俺を嗤(わら)うな!!

 その時、視界の中に《転がってきた》物がある。
 短剣だ。
 それは誰の物だろうか。分からない。

 いやそんなことはどうでも良い。
 李典はその短剣を取った。
 利天が止めろと、内から怒鳴る。
 構わず仰向けになり心臓に切っ先を押し当てた。

 ごふっ。
 吐血するも血が逆流し更に激しく咳き込む。

 あの女の思い通りになどいかせるものか。

 李典は気付かない。
 それがすでに、彼女の《思い通り》であることを。
 顔を見たあの瞬間から、己の意識は掌握されていたのだと――――。

 己の意思と信じて疑わぬ彼は、震える手に精一杯の力を込め、


「お止めなさい」


 泣きそうな声と共に、温かく柔らかな物に手を包まれた。


「まだ、負けないで」


 心配そうに覗き込んでくるのは女だ。
 黒髪に、青い瞳の……頭に獣の耳を持った、儚げな女。

 それに、利天が心底安堵した声を発するのだ。


 砂嵐……。


 と。



.

- 137 -


[*前] | [次#]

ページ:137/220

しおり