3
『姉上。どうか、俺を華侘の加勢に行かせて下さい。劉軍の人々は、今失うにはあまりに惜しい』
俺に、あなたの代わりに人の子を守らせて下さい。
弟は常と変わらない笑みでそう言って――――二度と甘寧の前に戻ってこなかった。
あの時も、こんな風に雲の流れの速い、穏やかな昼下がりであった。
甘寧はぼんやりと佇み空を仰ぐ。
彼女の側には周泰と蒋欽も、狐狸一族の息子達も姿が無い。皆、一旦気の知れた周瑜の水軍の中に混じっている。
周泰や蒋欽はともかく、息子達は騒がしい。今から来る者との会話に支障が出てしまいそうだからと、蒋欽が気を利かせたのだった。
甘寧の青い瞳は、空を写し込み、僅かながらに青みが明るくなる。
焦点は何処にも合わされず、遥か空の彼方へ真っ直ぐ向けられている。
が、ふと床板が軋む音に右耳が反応し、ゆっくりと首を回した。
濃くなった青がすっと細まる。
すぐに顔の向きは空の方へ。
「……」
「あの、甘寧様。先程は、申し訳ございませんでした。猫族の長として、深くお詫び申し上げます」
劉備である。
甘寧は目立って反応せず沈黙を貫く。
恒浪牙の彼を促す声も聞こえた。
関羽を――――否、恒浪牙以外の同行者を付けなかったことは、評価しよう。
そこでようやっと、肩越しに振り返る。
劉備はこうべを垂れている。長い白銀の紗幕のような髪が揺れ、顔を隠す。
「婿。あちらへ」
「畏(かしこ)まりました」
あちらへ――――離れていろ。
言外の命に従い恒浪牙は身を翻す。大股に歩き去る天仙を、一瞬だけ劉備が心細そうに振り返った。
しかし、甘寧が見ていることに気付くや背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「甘寧様」
「……」
劉備の呼び掛けを無視し、甘寧は語り始める。
「……お前達儚い命の人間にしてみれば、気が遠くなる程の、昔のことだ」
「え?」
「ある義賊がいた」
義賊は、最初は世を疎んだ青年と、青年に信を寄せた親友の二人だけだった。
だが、自分達の義に基づき強きを挫き弱きを助ける彼らの、罪を罪と自覚し、それでいて誰よりも真っ直ぐな生きざまに、様々な人間達が惚れた。
惚れた者達は彼の下に集う。
ただ片隅で腐っていくだけの破落戸(ごろつき)が。
心無い賊、或いは戦乱に蹂躙された村からのか弱き逃亡者が。
飢饉で長く暮らした村を捨てざるを得なかった弱った放浪者が。
弱き者の為に生きてきたが、理想と違う現実に一念発起した猛者が。
不治の病と医者に見捨てられ、藁にも縋る思いで青年の豊富な医学知識を頼ってきた貧困層の民が。
様々な人間が、彼らの下に集った。
青年を頭領とし、幾つもの村を作り、守り、巨大な義賊を形成した。
けれどもそれは、青年の選択の為に、呆気無く壊滅する。
青年は選択を間違えた。
甘寧は断じる。
彼の所為で、失わなくて良い命は数多失われ。
彼の所為で、一人の男は苦悩し自刃した。
彼の所為で、狂った女は更に狂った。
かの選択を他者に委ねなければ不幸は重ならなかった。
永久なる生を苦しみで満たしはしなかった。いや、永久なる生を得ず、一人の人間として、男として、頭領として、父親として、幸せに生をまっとう出来たであろう。
全て、全て、全て。
彼の選択の所為なのだ。
劉備の脳裏に一人の男性の姿が思い浮かぶ。根拠は無い。
ただ、何となく――――ただの勘で、彼女の語る人物が、彼ではないかと思ったのだ。
だから、間違っているかも知れない。
劉備は、口を挟めなかった。
もし劉備の頭に浮かんだ人物であったとするなら、身内に対して辛辣極まる発言ばかりだ。
そんなに、悪し様に言わなくても良いだろう……なんて思うが、本当に彼なのか分からない以上、何も言えないのだった。
それに、甘寧は劉備にこんなことを思わせる為だけに話しているのでは決してない。
彼女が何を劉備に与えようとしているのか、劉備は一言も聞き落とすまい、全て拾い上げなければと、甘寧の背中を凝視する。
「青年は、子を病で失い心を疲弊させた妻を連れて彼女の願うまま途方も無い旅に出た。その間に、青年達の作り上げた義賊は壊滅し、親友も自ら青年の名を騙って頭領として人々の前で首を落とされた。……青年が選択を誤ったのは、壊れた妻の心を癒せるのは夫である彼一人だと、親友も、全ての者達が、信じたからだ。だが、それは違ったんだ」
そこで、甘寧は劉備を呼んだ。
「何が、違うと思う?」
「何が……」
問われ、劉備は素直に思案する。
だが、甘寧は答えなど期待してはいなかった。
「それが分かれば、邪に染まったお前が語るような、お前のあの独占願望もお前の一面に過ぎぬことが分かるだろう。あれの、最期の願いを無下にすることもあるまい」
「僕の一面……」
『あれの最期の願い』――――それは、きっと幽谷の……。
甘寧は空を仰いだ。
次は何を言われるのだろう。
劉備は構えた。
「その答えが見つけられないのなら、オレは、お前の命を摘む。金眼ごとこの世から消してやる」
その言葉に劉備を突き放す冷たい響きは、無い。
……まだ、だ。
この人はまだ、僕を見捨てていないでくれている!
恒浪牙の言う通り、未だ見限られていない。
まだ、まだ、僕に何かを教えようとしてくれている。
応えなければ。
彼女に、応えなければ。
そう思う反面、その思いに危機感を抱く自分がいる。
本当に良いのか?
甘寧の教えに応えようと、猫族の長として相応しくなろうとすれば、また自由を失うのではないか?
長きに渡って関羽を想う心にさえ、蓋をせねばならぬ。
また、自由を失って良いのか?
自分を殺してまで、猫族を守りたいか?
思い出せ。
力を、元の姿を取り戻したかったその理由を。
呉との同盟の為、愛してもいない良く理解し合えてもいない人間の娘と婚姻を結び、最愛の関羽とは遠く離れなければならない。
僕は、今のこの状況を望んでいたのか? 最良であると受け入れられるというのか?
でも、守りたいと、もう守られるばかりでいたくないと望んだのは、関羽だけではない。《守りたいもの》の中には、張飛や蘇双や関定や世平や趙雲――――猫族と猫族に寄り添ってくれる者全てが含まれていたじゃないか。
……。
……。
……それは、本心だろうか。
いいや、そもそも、僕に猫族を守る権利はあるのか?
あんな罪を犯しておきながら、裁かれず、無関係面して笑い合って過ごしてきた自分に。
罪はいつか暴かれなければ――――否、劉備の口から明かさなければならない。
その時、彼らは自分に心を向けてくれるだろうか。
僕に、彼らを守る資格は残っているだろうか――――……。
劉備は、自問する。
甘寧は振り返らない。
振り返らぬまま、身体の向きを変えた。
「っあ……か、甘寧様!」
「劉備殿。そろそろ、猫族の話し合いに戻りましょうか」
背後に、恒浪牙。
彼は笑顔で劉備を促した。
話は、ここで終わりなのだ。
劉備は眦を下げて、甘寧の後ろ姿へ向けた足先を変えた。
甘寧とは逆方向に歩き出した恒浪牙に続いた。
歩きながら恒浪牙は、
「大丈夫だっでしょう?」
「……はい」
「……うーん。その割りには、浮かない顔ですね。自分がその立場にあることに自信が無くなりましたか?」
言葉を返せなかった。
急激に失った訳ではない。自分自身の中で相応か不相応か、ずっと疑問に思っていた。
けれども、大罪を隠したまま、別の罪で隠しているなどとは知らぬ恒浪牙には、情けない男だと思われてしまうかもしれない。
甘寧は勿論だが、こちらに心を砕いてくれるこの天仙にも見放されたら……きっと自分自身を信じられなくなる。
天界の清らかな存在に目をかけてもらえていることも、彼にとっては抑止力の一つとなっていたのだ。
ここで曖昧に誤魔化すのも、怖い。
返答に困窮していると、恒浪牙は吐息を漏らした。
はっと身体を強ばらせると、舌打ち。
「……あんな話を出されて、変な問題を出されても、分かる訳無いですよねぇ」
「あ、」
「別の話を……伯母上の話を、しましょうか」
恒浪牙は速度を落とし劉備の隣に並んだ。
「甘寧様の話ですか?」
「はい。あの方は、元々から狐狸一族の長ではなかったのですよ」
劉備は軽く驚いた。
「本当ですか?」
「ええ。本来狐狸一族をまとめていらしたのは伯母上の姉君。私が生まれた時代にはすでにいないことが当たり前になっていたお方でしたから名前も、どんな方だったのかも存じませんが、伯母上も、義父上も、大層尊敬され、愛されておられたそうです」
「甘寧様は、三人姉弟だったんですね」
「そうです。末だった長男が、私の妻の父親で、劉光殿と良く親しくしておられました。伯母上や私は、義父上が引き合わせてからの付き合いなんですよ」
この九尾三姉弟は、全てが人間に優しかった。人間を愛していたのだ。
だからこそ、人間の血を持った狐狸一族もまた、愛していた。
そこで、ふと劉備は疑問を抱いた。
「あの、狐狸一族は、元々どうやって生まれたんですか?」
「さあ、それを知るのは、伯母上と、姉君――――それに、姉君をお育てになられた天帝のみでしょう」
始めに生まれた姉を天帝が育て、次に生まれた甘寧を姉が育て、最後に生まれた弟を姉と甘寧が育てた。
甘寧にとって、姉は母でもあり、弟は息子でもあった。
その姉が守っていた狐狸一族もまた、長を母親のように慕っていたという。
だから彼女の喪失は、狐狸一族にも、天界にも、深い深い悲しみをもたらした。
「姉君は、突如として行方不明になられました。姉君が姿を消した原因は、狐狸一族にあったと聞きます。故に狐狸一族は当初、その罪の意識から一切との距離を置きたがり、姉の代わりに狐狸一族の長にならんとした伯母上の申し出も強く拒みました。されど、伯母上はそれを押し通して強引に長になりました。この理由も、伯母上が出した問題の答えと同じです」
こちらで考えた方が、分かりやすいかもしれませんね。
そう言って、恒浪牙は空を仰いだ。
「恒――――」
口を噤む。
その天仙は、無表情に、何かを圧し殺して空を睨んでいた。
.
- 136 -
[*前] | [次#]
ページ:136/220
しおり
←