空気は凍り付き、誰もが厳しい面持ちで関羽を見つめてくる。

 しまったと、関羽自身思った。
 けども、彼女の認識はあくまで言い方を間違えてしまったという失態。長である劉備を戦から遠ざけ傍観させるという己の主張をこそ誤ったのだとは、思わない。
 甘寧が劉備に何を求め促しているのか分からぬ関羽に、恒浪牙は頬を指で掻いて苦笑した。


「うぅん……伯母上が、関羽さんを見限らなければ良いのですが」

「……すみません」

「あ、いや。私も後で伯母上にご意向を伺うつもりですから。まあ、孫家や周瑜殿のことを大層気に入っておいでですから、私情で短絡的な行動はなさらないでしょう。伯母上も、あれでこの場にいる誰よりも思慮深いお方ですから。……それよりも、姫様が」


 恒浪牙は尚香に歩み寄り、細い肩にそっと手を添えた。


「落ち着いて下さい。だいぶ回復されているとはいえ、まだまだ全快という訳ではありません」


 諭す医者に、しかし尚香は承服しかねるような険しい顔で恒浪牙に噛みついた。


「ですがこの人は……! この人の為に狐狸一族の方々のご助力を失うとなれば……この人の言動、劉備様を貶めようとなさっているとしか思えません!!」

「そ、そんな……わたしは二人の為を思って……!」


 心外とばかりに関羽も声を荒げると、周瑜が二人の間に手を差し込みキツい声で咎めた。


「少し落ち着け、尚香。悪いが、アンタも少し控えてくれ」


 周瑜は一瞬幽谷を見、目を細めた。しかし、俯き加減の彼女には何も言わず、厳しい眼差しを関羽と尚香に向けた。

 ……関羽は肩を縮め神妙に謝った。


「……ごめんなさい」

「いや、アンタの言うこともわかるが、尚香の意見にも一理はあると思う。たとえ今、劉備が安全な場所に逃げたとしてもオレたちが戦に敗れれば、結局は捕らえられ、処刑されるだろう。この戦は、そういう戦なんだ。文字通り存亡をかけた戦から逃げることにどんな意味がある?」

「それは……」


 言い澱む関羽に、諸葛亮も溜め息を漏らして歩み寄る。


「この件については、我々のほうでもあらためて検討しよう。同じように、呉のほうでも戦についての認識を統一してもらいたい。それまで、しばしの休憩としたい」


 周瑜は頷いた。


「そうだな。それがいいだろうな。……アンタも、甘寧のことを頼むぜ。甘寧が加勢しないと決めれば、狐狸一族は勿論、周泰も幽谷も封統も、ここから離脱することになる。狐狸一族の力が無いともなれば、こちらの意見をまとめるのは難しい。最悪同盟破棄にもなるだろうな」

「ど、同盟破棄だなんて……!」


 関羽はどうして、何が甘寧の気に障ったのかあまり分かっていない。
 劉備は守るべき存在。
 それはごく当たり前のことだ。――――猫族の長として、ということならば。

 自立が出来ていないのは、一体どちらなのか……。
 心中でぼやきつつ、恒浪牙は周瑜に頷いて見せた。


「あい分かりました。……まあ、あの人のことですから、今回のことはまだ本気ではないでしょう。もう少し、楽観的にいて良いと思いますよ。……ああ、幽谷。あなたは、尚香様を天幕で休ませておくように」

「っ、あ……はい」


 一瞬、幽谷の反応が遅れた。
 しかし気付いただろうに恒浪牙は何も言わず、尚香に同じことを言い聞かせて甘寧の後を追いかけ身体を反転させた。

 そこへ、劉備が慌てて待ったをかける。


「あの、僕も一緒に行かせて下さい。僕から、甘寧様に謝罪をさせて欲しいんです」

「劉備っ?」


 関羽は瞠目した。


「それはわたしがしなければならないことよ。あなたがする必要は無いわ」

「ううん。君では駄目なんだ。君が行っても、多分甘寧様は拒絶する。……何に甘寧様が苛立っていたのか、分かる僕が行かないと」

「なら、わたしも」

「だから駄目なんですって。私も、関羽さんを連れていって責められるのは勘弁願いたいです」


 恒浪牙はやんわりとした声音で、きっぱりと断った。劉備に頷きかけ、歩き出す。

 劉備も関羽や諸葛亮、猫族に謝罪して早足の恒浪牙に続いた。

 関羽が数歩追いかけるのを、諸葛亮ごがキツく呼んで止めた。


「……ごめんなさい」

「今の劉備様には甘寧様のお導きが必要だ。お前が邪魔をするな」

「でも、劉備は」

「劉備様は、猫族の長だ」


 強く言い、諸葛亮は猫族の方へと。

 関羽も顔を歪めつつも、彼に従った。

 彼らの動きを眺めていた周瑜は、再び幽谷を見る。
 酷い顔色である。もう俯いていない青白い顔は眉間に皺を寄せ、唇を引き結び、色違いの双眸は何処か遠くを見ている。
 まるで、病人だ。


「幽谷」

「……っ、あ、はい……」


 肩に手を置いただけで大袈裟な程に身体が跳ね上がった。


「大丈夫か。まさかアンタも体調が優れないのか?」


 幽谷はすぐに首を振って否定した。


「いえ、ただ……いつの間にか考え事に没頭していたみたいで……」


 大したことではないと続けるが、説得力は無い。
 幽谷は周瑜の追求に大丈夫を繰り返し、未だ物言いたげな尚香に一礼し、天幕に戻ろうと背に手を当てた。

 尚香は、渋々従った。

 広間を去り行く二人を周瑜は胡乱(うろん)に見送るが、ふと老将に呼ばれ舌を打った。
 いつもならこれにも噛みつくが、今回はそれが無い。


「何だよ、ジジィ」


 黄蓋は憎まれ口を無視した。


「周瑜。お前は姫様と幽谷のお側におれ。ここは、儂がまとめておこう」


 周瑜が訝(いぶか)ると、彼は近付き、声を潜めた。


「姫様や幽谷のご様子、尋常なものと思えん。暫くは、お前が見ておくのだ」



‡‡‡





 劉備は恒浪牙に、気まずそうに問いかけた。


「本当に、甘寧様は猫族を……僕を、見捨てていないのでしょうか」

「簡単に見捨てる程、浅い仲じゃありませんよ。伯母上と、あなたのご先祖は」


 恒浪牙は振り返らず、声色穏やかに答えた。
 劉備はほっと吐息を漏らす。彼の言葉に、嘘は無いと感じられた。


「伯母上が本当に見捨てたのならば、周泰や蒋欽がすでに私達を止めに来ている筈。それが無いということは、話は聞いてくれるということですよ」

「そうですか……」


 恒浪牙は劉備を肩越しに振り返る。目を細めて優しく、穏やかに微笑んだ。


「劉備殿。伯母上があのような態度をあからさまに見せたのは、それだけあなたのことを本気で考えておられるからです」

「本気で、僕のことを……」

「ですから、あなたも怖がってばかりいないで、覚悟を決めなさい。伯母上だけではありません。私や諸葛亮殿も趙雲殿も、狐狸一族や猫族の方々も、ちゃんとあなたを見ています。あなたが転んだ時には手を差し伸べられます。あなたがあなたの強い意思で己に立ち向かえるよう、支えることは出来ますよ」


 ……優しい言葉だ。
 だが、その優しさが、劉備の心に凶器と変わって突き刺さる。
 彼は、知らない。
 僕にはそんな資格が、無いことを……。
 脳裏によぎった鮮烈な光景に、劉備は呼吸が止まった。足を止めて俯く。

 恒浪牙は黙して歩みを止めた。

 この人は、天仙という立場に在る方は、僕の犯した最初の大罪を知らない。


「僕、は……」

「人とは、人生のうちで必ず過ちを犯すものです。大なり小なりね。それをいちいち怖がっていたって、何にもならないんですよ」


 己の犯す過ちから学んで生きていくのは、知能を持つ生き物の、素晴らしい特権です。
 恒浪牙の言葉には、責める響きは無い。ただただ柔らかな声で、天仙は語る。


「あなたが何を気に病んでいるのかは、さすがに私も分かりません。けれど犯した過ちから逃げてばかりで何も学べないのなら、成長の機会を自ら放棄したことになる。いつかまた、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれませんよ」

「はい……分かってはいます」


 そう。頭では、分かっている――――つもりだ。
 されども過ちに向き合うことで、大事なものに亀裂が入るやも知れぬ。
 それは、きっと……修復し得ぬ深い深い傷となり、足掻いても足掻かずとも独りでにより深まっていくだろう。
 何よりも、恐ろしい……。

 声の震える劉備を、天仙は振り返らない。


「それは、あなたが一体誰を大事に思っているから迷うことなのでしょう」

「え?」

「そんなにも、信用出来ない方なのでしょうか。……いや、そもそもそれは、一人なんですかねえ」


 途中から、独り言のようだった。心底不思議そうに首を傾げた唸り顎を押さえ、「やはり、憶測で語るものではありませんねぇ」ぼやき、歩き出す。


「話はここまでにして、ちょっと、急ぎましょうか。伯母上は、ふらふら何処にでも行かれますから。今のうちに追い付いておかないと、捜し出すのに日暮れまでかかってしまうかもしれません」

「……はい」


 劉備も、ゆっくりと足を踏み出した。
 重りがある訳でもないのに、少し、重い。


「大丈夫ですよ、本当に」


 ……お前は、俺達のようにはなるまいよ。
 ぼそり、呟く。


「え?」

「さあさあ、急ぎましょう」

「あ……はい……」



.

- 135 -


[*前] | [次#]

ページ:135/220

しおり