その日、呉軍に戦慄が走る。

────曹操軍到来。

 その数凡(およ)そ八十万。
 圧倒的な物量を持って押し寄せた曹操軍の船団の列は果てが見えぬ。
 対岸の烏林に布陣し、物々しく威圧するその様は未だぐらつく武将等の心を揺さぶるには十分だった。
 曹操が呉と猫族を徹底的に潰しにかかっていることも示しながら、こちらの士気を削ぎ内部分裂を誘引しようとしているのは明らかだった。


「な、なんだよ、八十万って……」

「そ、曹操軍ってやつは何を考えてるんだ!? そんな大軍でどうやって戦えってんだよ!」


 怖じ気付く呉軍兵士らを遠目に見、幽谷は船団に視線を戻した。

 風は凪いでいる。不穏な戦の空気を察した鳥達も鳴かず、この重いだけの静けさがおどろしい。
 隣で尚香が小さく笑ったような気がした。名を呼んで見下ろせば、厳しい面持ちで、胸の前で手を組み悩んでいる様子である。気の所為だったようだ。

 たまたま居合わせた張飛達も兵士達を見て、


「呉のヤツら、かなり動揺してるみたいだぜ」

「しょうがないわよ。わたしたちの方は、呉軍の水軍と狐狸一族をあわせてもせいぜい五万でしょう?」

「そんなところだ。十倍以上の敵と戦うとなれば怖じ気づいても致し方ない」


 尚香はきっ、と焦りを含んだ目で趙雲を睨んだ。


「そんなことを言ってる場合ではありません。このままじゃ……」

「そう言ったってなー。諸葛亮が自慢の策で何とかしてくれるのを祈るしかないよな」


 ここで、狐狸一族のことが出ないのは、諸葛亮から狐狸一族は周瑜や諸葛亮ではなく、あくまで長甘寧の判断、指示に従い戦に参加することを予(あらかじ)め伝えてあるからだ。
 甘寧も、それなりに軍師の意図は汲むだろうが、臨機応変に行動を変えるだろう。だが、戦況が曹操軍に傾くような真似は絶対にしない。

 尚香は下唇を噛んで俯いた。

 彼女に声をかけようとしたけれど、


「その諸葛亮から集まれってきてるよ。軍議だってさ」


 蘇双が、現れた。


「そっか。んじゃ、行こーぜ。えっと、お姫さんはどうする?」

「私も行きます……。劉備様のお役に立ちたいですから」


 尚香は言い、口元を綻ばせる。


「そう、お助けしなければ…………。なんとしても、ほしい…………。……八十万だなんて……素敵……」

「え?」


 聞こえた囁きに幽谷は声を漏らした。
 『八十万だなんて素敵』って、どういう意味……?
 顔を覗き込むと、尚香はきょとんと首を傾げた。


「どうかしましたか?」

「あ。いえ……尚香様。お身体は大丈夫ですか? もしご不調であらせられますれば、すぐにでも休まれるべきです」

「大丈夫です。恒浪牙様のお陰で、だいぶ良くなりました。あなたも、心配してくれてありがとう」

「いえ……当たり前のことですから」

「さあ、軍議に参りましょう……」


 尚香は幽谷ににっこりと笑いかけ、手を握った。
 小さく傷一つ無い滑らかな手が酷く冷たいのに、少し驚いた。



‡‡‡




 曹操軍は八十万。
 こちらは五万。
 圧倒的な兵力差でどう戦えば勝てるのか────誰もが不安を抱き、戦意を挫(くじ)かれている。
 故に、弱腰な呉の武将達はここに来て戦うべきか迷い始めた。軍議は紛糾し、甘寧も目に見えて呆れ、苛立ちを見せている。

 尚香と共に猫族と混ざって膨張していた幽谷は、甘寧と蒋欽、周泰の様子を気にかけながらも、尚香が疲れていないかも逐一確認する。


「今からでも遅くはなかろう。八十万だぞ? 幾ら狐狸一族の力があろうと、勝てるわけがない」

「然り。曹操軍に降るしか、呉の生き残る道はない。劉備軍との同盟など棄てればいいのだ」


 関定が、後頭部を掻いて溜息をついた。


「あー、やっぱり、こうなったかー」

「ちょっと、関定。声が大きいわよ……」


 関羽が窘めるも彼と似た様子は他の猫族にも見られた。

 周瑜の隣に立つ恒浪牙も猫族を見て苦笑を浮かべていた。が、彼も甘寧と似た心境らしく、口端がひきつっているように見える。

 と、不意に尚香が動く。
 大股に周瑜達の前にまで出た。
 慌てて幽谷も従う。


「……あなたたちは、それでも呉の将ですか。呉の精鋭である水軍を率いる将がこんな状態では情けない……」

「姫様。そうは申されましても、勝てぬ戦なのは明らかではありませんか。狐狸一族も結局は甘寧殿の采配次第。となれば、我らに有利な働きをして下さる保証はありませぬぞ」


 それは絶対に有り得ない。
 幽谷は戯言(たわごと)を抜かした武将を睨めつけた。彼は首を竦(すく)め身を引いた。

 途切れたのを見計らい、尚香が責め立てる。


「我々は、漢の逆賊である曹操を共に討たんと、劉備様と同盟を組んだのです……。それを今更破棄しようなどと……一体どういう神経で言っているのです……? 同盟の破棄など、そのために劉備様と婚約した私に対する侮辱……。それ以外のなにものでもありません……」


 眉間に皺を刻み睨めつける呉の主の妹姫に、武将は青ざめ首を左右に振った。


「ひ、姫様! そういうつもりでは……」

「戦は単なる数の勝負ではありません……。兵士の質、地形の問題、様々な要因を以って勝敗が決まるのです……少数で大軍をやぶった例なんていくらでもあります……。違いますか、周瑜」

「まぁ、その通りだな」

「ほら、周瑜だってこう言ってるじゃない。狐狸一族の方々だって、私は信じています。だって幽谷はいつも私ととても仲良くして下さいますし、周泰だって、誰よりも強い忠義を捧げてくれています。甘寧様も、蒋欽様も、私達にいつも良くして下さっているというのに、どうして疑うことがありますか。いいえ、ありません」


 幽谷を振り返り、尚香は笑う。
 幽谷は拱手し「有り難き幸せです」とこれに返しつつ、胸中に浮かんだ違和感に胸がざわめいた。
 だがこれは気の所為なのだ。甘寧もそう言っていた。これは私の身体が過剰になっているだけ。

 しかし、無視するなと訴えるように、胸のうちから違和感が主張する。
 気の所為では、ない……?

 いや、けれど────。


「それに……こちらには、劉備様がいます……」

「……尚香様?」


 尚香はうっとりと、悦に入ったような赤らんだ顔で劉備を見た。

 ……尚香様は、こんな顔をなさるお方だっただろうか。
 潤む双眼に狂気を見たような気がして違和感が大きく膨れ上がる。


「人より優れた能力を持つ、猫族。その長である劉備様は、誰よりも強い力を持っていらっしゃいます……それこそ、何万という曹操軍をひとりでなぎ倒してしまう程のお力を……!」


 愕然。

 猫族が顔を強ばらせた。
 彼女の言っているのは、きっと官渡の戦いのことだ。
 されどそれは孫家の娘が知る筈のない事実。

 一斉に幽谷を見るが、幽谷は彼女に劉備の所業を教えたことは無い。長坂のことは勿論、聞いただけの官渡の戦いなど安易に言える筈がない。
 思い浮かんだのは封統だが、尚香に劉備について忠告したのは案じてのことだし、彼女に劉備の所業を伝え怯えさせることはしない。
 ならば────恒浪牙を見るが、彼も首を左右に振って甘寧を見やった。甘寧達も、身振りで否定した。
 では、周瑜……いや、有り得ない。孫権も絶対に無い。姫君に話してはならないことだと分かっているもの。

 一体誰が尚香にその情報を与えたのか……?


「……尚香様、何故それをあなたがご存じなのです?」


 問わずにはいられなかった。
 違和感が限界にまで膨張している。
 だが甘寧の言葉がまだ否定出来ずにいる。
 自分の感性と甘寧の言葉と、どちらが正しいのか分からなくなっている。

 そんな幽谷の困惑など露知らず、尚香は笑みを深めて言うのだ。


「それくらい知っています……。劉備様のことなら、なんでも……」


 幽谷が一歩退がったのは、無意識だった。
 私は今、尚香様から逃げた?
 一瞬、そう思った。
 嗚呼分からない。
 私がおかしいのだろうか。

 違和感が苛立ちのようにささくれ立って、胸が痛い。苦しい。

 頭を押さえると、尚香が笑みを消して幽谷の顔を覗き込んできた。


「幽谷? どうしたの? 顔色が悪いわ」

「いえ……問題ありません」


 掠れた声で、返す。
 尚香は心配そうにしながらも、それ以上は何も言わなかった。

 するとそこへ関羽が恐る恐る口を挟む。


「あ、あの、そのことなんですけど……劉備は、今回の戦には出ない方がいいと思うんです」


 尚香は咄嗟に関羽を見た。


「なんですって!? あなた何を言っているの……!?」

「ううん。それだけじゃなくて、すぐにでも陸口を出て、後方の安全なところで待っていてもらいたいの」


 それは、劉備も衝撃的な発言であったようで、劉備も驚いた顔で関羽を見下ろしている。


「なにを……?」

「劉備。あなたは猫族の長なんだもの。これからは、危険な戦場に出てはダメ。そういうのは、わたしたちがやることよ」

「な、何を言うのですか、あなたは……。長たるものが、戦場から逃げ出していいと、本気で思っているのですか……?」

「劉備は武将じゃないわ。戦のことは、戦のことをよく知っている将が指揮をすればいい。それは呉だって同じはずでしょう? 戦場での指揮は、孫権様ではなく周瑜がとっているんだから」

「猫族と呉では事情が違います! 能力で言えば、それこそ劉備様には先陣を切っていただくくらいでなければ。それに、劉備様は猫族の長……。皆の士気のためにも、戦場に出ていただきたいわ……」

「それは賛成できない。それに尚香様だって、劉備に危険な目に遭ってほしくなんてないはずよ。わたしたちは、劉備様と尚香様のお二人に安全なところにいてほしいの。それなのに、どうして……」


 突如、関羽の言葉が大音声の笑い声に遮られた。
 広間自体を揺るがす程の笑声の大合唱に何事かと目を白黒させれば、廊下から狐狸一族の兄達が大爆笑しながら入ってきたのである。
 手を叩いたり劉備を指差したりして、馬鹿にしているようにも見える。


「お袋! アンタ猫族の女の子に遠回しに否定されてっぞ!」

「え!? そんな、わたしはそんなつもり……!」

「そいつはただでさえ駄目な猫族の長を更に駄目にしたいだけなんだろう」


 また、遮られる。
 今度は甘寧の冷たい声だ。

 甘寧はゆっくりと己の尻尾から立ち上がると、片手を挙げて歩き出した。


「周瑜。オレ達は降りる。この戦はお前らで勝手にやってくれ」

「は!? ちょっと待て! アンタ……」


 黙殺である。
 屈強な狐狸一族はまだにやにや笑っている。
 長が立ち去ると、自然、彼らも、周泰も蒋欽も付き従い広間を出ていく。

 関羽と劉備を見ると、彼らは青ざめていた。

 だが、甘寧は決して猫族を────いや、この二人を見放したのではないのだと、何となく分かった。まだ劉備に対し、気にかけている……と幽谷は思う。

 何故なら、先程の発言が、幽谷ですら本心のように思えなかったのだ。

 周瑜は頭を押さえて舌打ちした。この状況で甘寧のあの発言は痛い。これでは一気に降伏を求める声が強まるだろう。
 諸葛亮も、苦々しい顔で関羽を睨んでいた。



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