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周瑜の天幕には、先客がいた。
甘寧である。
周瑜が寝る寝台に堂々と仰臥(ぎょうが)し、鼾(いびき)を掻いている。見た目がうら若い少女なだけに、この耳障りは鼾は如何(いかが)なものか。しかも、足ははしたなく大きく開き……ああ、腹をかりかり掻いている。
母は、こんなに鼾が五月蠅かっただろうか。単に、疲れが溜まっているだけなのだろうか。鼻の調子が悪いだけなのだろうか。
……というか何故、周瑜殿の天幕で母上がくつろいでいらっしゃるのかしら。
幽谷は嘆息して甘寧に歩み寄った。肩に手を置き、そっと揺する。
「母上、母上。お目覚め下さいまし」
「ぐがー……」
「あの、母上……」
「がごっ、ぐー……」
「……」
鼾が非常に五月蠅い。
幽谷は距離を取り、耳を両手で押さえた。
起こさなければならないのだが、近付けない。近付きたくない。
だがこのままでは周瑜が甘寧のこの不躾な振る舞いに怒り出すのは明らかだ。
耳の健康によろしくない気がするが……仕方がない。
意を決してもう一度、幽谷は甘寧に歩み寄った。肩を掴んでさっきよりも大きめに揺すってやった。
「母上。お目覚め下さいまし。ここは周瑜殿の天幕です」
「知ってる」
「あっ」
爆睡していると思われた甘寧はぱっちりと青い目を開き、口角をつり上げた。目を丸くした愛娘を悪戯が成功した子供のように無邪気な笑顔で見上げ、上体を起こした。
「お目覚めですか」
「ま、幽谷が天幕に入る前までは爆睡してたんだけどなぁ」
「さようで」
「さよう、さよう」
甘寧は寝台を降りると首を回し、背伸びした。幽谷が天幕に入るまで爆睡していたというのは、どうやら本当らしい。大きな欠伸を一つした甘寧はぼりぼりと後頭部を掻き、天幕の入り口を見やった。
そして、笑みがふっと消えたかと思うと、
「……お前が、言っていたことだがな。オレも気になって尚香の様子をもう一度見ておいた」
幽谷の耳がぴくりと微動する。
甘寧は腕組みして幽谷に背を向けたまま己のふわふわした九本の尻尾に腰掛けた。
「そうしたら……どうも、劉備の側にいすぎて、金眼の邪気が移り香のようにあいつの身体にもまとわりついているらしい。それで、お前の感性が混乱していると見える。お前は、周泰や蒋欽達と違って、四霊と狐狸一族の二つの要素を持っている。持っていながら多少の歪みも生じぬようオレが調整して身体を作ったからな……お前の元々の自我をいじるつもりもなかったし、感性の部分までは、ほとんど考慮していなかった」
「では、やはり問題は、」
「ああ。無えよ。婿の言う通り、まだ意識に障害が出ているんだろう。普段と違うように感じるのは、金眼の邪気で認識が乱れている所為と考えられる」
……そうか。自分に原因があったのか。
幽谷はほっとした。自分の疑念の為に動いてくれた母の言葉を疑うことも無い。
甘寧は愛娘に笑って見せ、立った。
「じきに曹操軍も姿を現すだろう。あれには屈強な青州兵に加えて荊州兵も軍に組み込んだ。しかもあれの中には水軍に長けた蔡瑁(さいぼう)がいる。圧倒的な数に加えて蔡瑁にある程度訓練されているとすれば……呉軍劉軍共々おじゃん、だ」
「それは……」
「そこで、だ。オレは一つ良いことを思い付いた」
人差し指を立て、くるくると回る。
それをじっと見つめる幽谷に歯を剥いて笑って見せ、
「どうだ、周瑜。オレの悪戯に乗ってくれる気は無ぇか」
天幕の外に向かって声を張り上げた。
ややあって、渋面の周瑜が入ってくる。
「取り敢えず、何でアンタがここにいるんだよ」
「気持ち良さそうな寝台があれば誰でも寝るに決まってるだろ」
お前は馬鹿か、とでも言いたげな顔である。
周瑜は舌を打ち腕を組んで甘寧を見下ろした。
「で、何をするって?」
「曹操に、蔡瑁……と、張允(ちょういん)を殺させる」
「屈託の無い笑顔で、怖いことを言う」
「ってことで、一筆頼む。信用されるような上手い文句を書いてくれよー。オレの名前使って良いからさ」
……ああ、そうか。
甘寧は一時は劉表配下の黄祖のもとに身を寄せていたのだ。
蔡瑁なる男達と接触していてもおかしくはない。
周瑜はつかの間思案し、了承した。
「分かった。一晩待ってろ」
「明朝、息子を一人寄越す。そのまま曹操軍に侵入させる。そこでまんまと引っかかってくれりゃあ、曹操軍全体の能力も、荊州兵の士気も連合軍に劣るだろう。そこで孫堅の時代から卓越した呉の水軍でつつけば、全体の士気も一気に落ちる。そこをオレ達狐狸一族と猫族が更に更に掻き乱す。どうだ、呉の都督殿?」
「戦の運びを考えるのはオレ達だ。アンタが口出しするな。アンタのさっきの策は、有り難く使わせてもらうけどな」
「当然だ。オレの考えをそっくりそのまま使えばオレらは抜けるぞ」
周瑜は肩をすくめた。
「アンタは本当にオレ達に甘いのか冷たいのか、分からない」
「下界のことは下界の者達に任せるべきだと思ってるだけさ」
「……ああ、この戦いに参加するのはアンタらの事情があるんだったな」
以前、甘寧が周瑜に話した三体の大妖のことを指しているとは、幽谷にも分かった。
甘寧は大きく頷いた。一瞬、青い双眼に何かを耐えるような苦しげな感情が見えた。
笑みは失せ、彼女は目を伏せた。
「どうなんだ、あれから」
「微弱だが、気配を感じるようになった。じきに見失っている残り一匹も、ここに────金眼のもとに現れる」
「そっちの事情はそっちに任せて良いんだろ?」
「ああ。……幽谷、尚香の様子を見ておいで。少し、この若造と話さなければならん」
「分かりました。周瑜殿」
ここにいるように指示を出したのは周瑜だ。彼に許可を求めると、渋々頷いた。
幽谷は二人に拱手(きょうしゅ)し、天幕を辞した。
‡‡‡
「────お前、もうすぐ死ぬぞ。この戦で身体に負担をかければ、お前の寿命は更に縮む」
幽谷の足音が聞こえなくなって、甘寧は告げる。
周瑜は言葉を詰まらせたものの、それ程強い衝撃を受けた様子も無い。
己の身体だ、己が一番分かっている。
甘寧は再び豊かな尻尾に座り、その幼き頃側で見守った荊州猫族の生き残りを見上げた。
「婿が、お前の治療薬の生成に光明が見えたと言ってる。数百年かけてやっとな」
ぴくりと小さな反応に手応えを感じる。
「……」
「試す気はあるか。……もし、あるのなら、一つ条件がある」
下界の生き物であることを止めろ。
甘寧は試すような口振りで、周瑜に言った。
─第六章・了─
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や、やっと次の章へ……!
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