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 ここ数日、李典の体調が思わしくない。
 食は極端に細まっているし、日常の動作にだって精彩を欠いている。

 けれどそれでも気丈に曹操軍の一武将として休もうとせず来る戦に挑もうとする姿勢は、きっと夏侯惇に似たのだろうと、夏侯淵は思う。

 夏侯惇を尊敬し、曹操の覇道の為に粉骨砕身する生真面目な李典のことを弟のように可愛がっているだけに、夏侯淵は彼の様子が気になって仕方がなかった。
 昨日見かねて鍛錬中の李典を部屋で休ませた夏侯惇も、きっと同じ心境だろう。


「おい、大丈夫なのかよ。顔色、悪いぞ」


 軍議の直前、夏侯淵は広間直前でよろめいた李典に歩み寄って小声で問いかける。
 李典は小さく頷き、深呼吸を一つするとぴんと背筋を伸ばし土気色の顔を引き締めて広間の中へ入った。
 いつでも支えられるように隣に寄り添ってやると、小さく謝罪された。

 広間に入ってから夏侯惇が厳しい面持ちで李典を見ている。軍議が終われば即座に部屋に戻らされるだろう。
 本人は全く自信が無いが、李典の知勇は、他の武将からも存外頼りにされている。
 夏侯淵も彼が曹操の覇道に必要な逸材であることは分かっているし、彼が活躍して出世すれば夏侯惇と共に我がことのように喜ぶだろう。

 それだけに、無理を押して死にに行くような状態の李典を、心から案じている。

 最悪、無理矢理にでも戦に出さずに休ませるつもりではいた。……曹操に受け入れられるか、分からないが。

 諸将が揃い最後に張遼が曹操の目の前に立つと、呉軍に潜入していた彼は淡々と報告を始めた。

 その内容は、曹操軍にとっても予想外のことでった。


「呉が、同盟を断っただと?」

「はい。調べてみましたところ、猫族の皆さんとの同盟を決めていたようです」

「愚かな。呉には、先を見る目を持つ者がいないようだな」

「……いえ、恐らくは狐狸一族の存在があってのことでしょう」


 口を挟んだのは李典だ。弱々しいが、それでも広間にいる人間皆の耳に届く程には張っている。
 夏侯惇が僅かに一歩足を踏み出したのを制するように、李典は言葉を続けた。


「長坂で、狐狸一族は十三支に味方した。神の一族の意思での行動だったとすれば、これを呉が無視する筈がありません。孫権の父孫堅と四霊の関係もあります。幽谷という四霊を一族に持つのなら、なおさら……」

「孫堅と四霊の関係だと?」


 曹操が柳眉を顰めるのに、李典は頷いてみせる。


「ただの噂であるとも考えられますが……孫堅の妻の妹が、四霊であったと、荊州兵の一人が言っておりました。その四霊は討たれた孫堅の遺体を満身創痍で孫策、孫権らのもとへ連れ帰り、そのまま息絶えたということで……呉では四霊に対する信仰が起こったと」


 それに、張遼が笑顔で付け加えた。


「ああ、そのお話は呂布様から伺ったことがございます。その方は麒麟で、無邪気に良く食べる、交わした約束は必ず守る誠実な女性であったと聞いております。ですが、四霊に対する信仰は昔から存在しておりました。南では、誤った認識をされることが無かったようですね」

「狐狸一族に十三支の力を加えた呉の水軍……これを考えれば呉も強気に出られる」


 その上での、曹操との同盟を断ったという動きであるのだとすれば、彼らはすでに動き出している。
 李典が言うと、賈栩が曹操を見やって、


「曹操様、呉はおそらく陸口あたりに布陣するでしょう。先を越されることになりますな。加えて神の一族と十三支……」

「それがどうした。奴らがその気なら、応えてやろうではないか。我が軍のすべてを以て、劉備を討つ」


 張遼は一瞬遠い目をして、ぽつりと呟いた。


「劉備さんですか。金眼の呪いに染まった彼は、かなり手ごわいでしょうね」

「金眼ねぇ」


 賈栩は胡乱(うろん)げに張遼を見やった。


「三百年前の伝承でしか話は聞いたことはないがね。本当にそんな化け物なのかい?」

「お前が実物を見ていないからそんなことを言えるんだ。あれは間違いなく化け物だ……」


 張遼は賈栩に身体ごと向き直り、記憶を手繰るように視線をやや上に語り出した。


「三百年前、当時の漢帝国は血で血を洗う戦が各地で起こっていたそうです。戦で流れた血は地中に溜まり、大地は恐怖と絶望で満ち溢れる。そんな戦のせいで、地脈には陰の気が溜まりそこからいくつもの邪悪な妖怪が誕生しました。そして大陸中を恐怖に陥れたのです」

「いくつも? 金眼以外にもそんな化け物がいたのか?」

「そのほとんどは大陸中から集った精鋭に倒されたそうですが、金眼と……存在を伝えることも、名を呼ぶことすら禁じられた《あの方》だけは最後まで倒せなかったそうですよ。それだけ、強いということです。まさに最凶の妖怪ですね」

「おい。金眼とは違う化け物がいたのか?」


 夏侯惇が指摘した瞬間、李典がぴくりと肩を震わせた。それに気付いたのは夏侯淵だけだ。
 顔色を覗き込むと奥歯を噛み締め何かに耐えているような必死な顔だ。
 ヤバい、と思った夏侯淵は夏侯惇を呼ぼうとした。

 けれど────。


「《あの方》のお名前は、呂布様も決して口にはなさいませんでした。仙人の間ではその存在に触れることは禁忌。限られた者のみが、呼ぶことを許されています。……現在の狐狸一族の長、甘寧様すら完全には滅しきれなかった、金眼以上に恐ろしくも尊いお方だと、呂布様が、強く畏怖されておられました」

「あの呂布が畏怖!?」


 夏侯惇が頓狂(とんきょう)な声を上げた。
 彼女の狂気に満たされた圧倒的な武を知っているだけに、その呂布が畏(おそ)れる程の《化け物》など、想像が付かない。
 金眼以上に凶大とするなら、その想像はより困難となる。

 曹操も僅かばかり顔が強ばっているように見受けられる。
 けども、


「……張遼。現在の狐狸一族の長、と言ったな」

「はい。甘寧様は、元の狐狸一族の長から、一族を引き継ぎ守っておられるそうです。元の長は────」

「……っおい、李典!!」


 夏侯淵はしまったと己を叱咤する。つい、話に聞き入ってしまった。

 李典は耐えきれずその場に膝を付き、なんと、吐血した。
 これには夏侯淵も予想外で青ざめ慌てて李典の顔を覗き込んだ。
 李典は夏侯淵からの視線を拒むように胸を押さえてその場にうずくまって前のめりになった。額が床につき、己の血が肌を汚した。

 これに、夏侯惇のみならず曹操も狼狽し李典に駆け寄る。


「李典! しっかりしろ、李典!!」


 李典はとても答えられる状態ではなかった。声を出そうとすれば血を吐き出し、咽も肺も胃も腸も太い針でずぶずぶ刺されるように痛むのだ。
 夏侯淵と夏侯惇に左右から支えられ、李典はようやっと立ち上がる。と、また大量に吐血し己のどす黒い血で胸を染めた。
 盛んに声をかけて意識を繋ぎ止める夏侯淵らに微かに頷きながら、李典は危うい足取りで広間を出た。

 曹操はその間、痛々しい様から目を逸らしていた。
 ざわめく諸将を片手を挙げる動きで黙らせ、賈栩を呼んだ。


「賈栩。軍医を呼べ。急ぎ李典の治療をさせろ。あれの才は、まだ捨てるに惜しい」

「分かりました」


 賈栩はすぐ様動いた。足早に広間を辞し、三人を追い越した。

 後ろで、激しい咳が聞こえた。



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