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『え? 尚香様が? ……いやぁ、多分まだ思考がイっちゃ……ではなくて、定まらないでいるんじゃないでしょうかねえ。脳に異常があった場合、後遺症が残ることがありますから。今はとにかく、休ませてあげて下さい』
『姫がおかしい? はて……儂らには何も変わった風には見えんがなあ……』
『尚香様が……いや、俺には何も感じぬ』
『僕も別に……まあ、多少足取りが危ういかって感じはしたけど、あのクソ天仙が何も言わないってことは、身体には何の異常も無いってことなんだろ? あいつ、中身も見た目もクソな性格破綻クソ野郎だけど、医術に滅茶苦茶秀でてるのは確かだし。医術にだけはね。他は皆クソだけど』
『気の所為じゃねぇか? オレは別に、尚香から何も感じねえし……婿や封統も何も感じていないんなら、確かだろう』
『お袋達が言うんなら、俺っち達もそうだろうしなあ……気の所為なんじゃねえかぁ?』
……おかしい。
誰に訊いても、答えは同じだ。
尚香様がおかしいって、私だけが感じていることなの?
私だけなら、本当に気の所為なのかしら。
でも、お側にいるだけで何かがおかしいと思えて仕方がない。
別に、気配がおかしい訳ではない。
ただ動作や癖が、時折違うように感じるのだ。
まだ仕えるようになって日が経っていないから、戦場で緊張している尚香の動作が違うように見えて、こんな風に思えてしまうのだろうか。
いえ、でもそんな筈……。
船の上で一人風に当たりながら悶々と考えていると、ふと背後から呼ばれた。
足を止めて振り返ればそこには怪訝そうな諸葛亮が。
「どうした。尚香様が倒れられてから、ずっと考え込んでいると聞いたが」
「あ……いえ。すみません」
「主君の様子を気遣うのは部下として当たり前のことだが……見たところ、それだけではなさそうだな。恒浪牙殿がいらっしゃるのなら、何も問題は無かろう」
体調の方は、心配していない。
恒浪牙の医術は十分信頼に足る。
だから……やはり、私の思い過ごしなのだろうか……。
また思案に沈みそうになり、はっと中断する。
諸葛亮は幽谷に歩み寄り、顔を覗き込んできた。
「私に話して構わないのなら、聞くが」
「あ……」
幽谷は迷う。
話せば彼は甘寧達とは違う意見を話してくれるかもしれない。
そう思う一方で、狐狸一族のように力を持たない常人の諸葛亮を困らせてしまうのではないかと気後れしてしまう。
口を開閉させて躊躇っていると、諸葛亮も幽谷を待ってくれた。その気遣いが有り難い。
ようやっと「実は────」と切り出そうとした時、それを遮るように後ろから腕が回って首を軽く絞めた。体重をかけられ、油断しきっていた身体は前に倒れ掛けた。諸葛亮が肩を押さえてくれて助かった。
「なーに話してんだ、幽谷?」
「……周瑜殿? 重いです、退いて下さい」
周瑜を押し退けるが、周瑜の金の目を見てぞっとした。
一瞬だけだ。一瞬だけ────目に感情が無かった。
これも気の所為かもしれない。
心中で判断し、距離を取る。
「周瑜……」呆れた諸葛亮の睨みに肩をすくめ、周瑜は桟橋の方へ目を向ける。そこには、周泰に水軍の説明を受ける張飛達猫族の姿があった。
「猫族の奴らはのんきだなー。水軍を見て浮かれてるみたいなんだけど。さて、アンタはどう見える?」
諸葛亮は目を細めた。何か言いたげに周瑜を睨むも、目を伏せ、ぼそりと、
「……厳しい戦いになるだろうな」
「ははっ! 同盟相手の軍師殿がバカじゃなくて安心したぜ」
諸葛亮もまた、猫族を見やる。
「彼らはあれでいい。悲観的な将など、有害でしかないからな」
「なるほど。違いない」
「陸口に布陣できたのは大きいが、これで五分五分といったところだ。勝つためには、さらなる策が必要になる。いや、策だけではなく、天命もな」
諸葛亮は言い、ふと天を仰ぐ。
つられて幽谷と周瑜も顔を上に向けた。
「天命か……。そればっかりは。天に祈るしかないな。天に近い狐狸一族の長は、過剰な手出しはしない。狐狸一族の働きは、全てオレ達の仕事次第だ」
周瑜は曹操軍がじきに現れるだろう彼方を見つめ、笑みを消した。都督としての顔つきになった。
これ以上は二人の邪魔になってしまうだろうと、諸葛亮に拱手しその場を足早に離れた。話さずに済んで、少しだけほっとしている自分がいる。
されど、
「幽谷。後で話があるからオレの天幕で待ってろよ」
周瑜の声に、足を止めた。
振り返るが周瑜はすでに諸葛亮と会話を始めている。諸葛亮が訝って幽谷に視線をやり何かを言おうとするが、彼は軍事的な話題で以(もっ)て制した。
周瑜の表情は、こちらからは見えない。
何となく従わない方が良いような気もするが……幽谷は周瑜にあてがわれた天幕へ足を向けた。
‡‡‡
「……なあ、クソ天仙。最近の周瑜どう思う?」
胸中でうねり狂う憎悪と嫌悪感を抑え込み、封統は恒浪牙に問いかけた。
恒浪牙は戦に備えて薬を調合しつつ、封統の問いに答える。
「全く自覚が無いが……ありゃ完全に幽谷にゾッコンだな」
「は、自覚が無いって、あれで無意識な訳? さっき幽谷が諸葛亮と話してた時人殺す勢いで睨んでたけど。それまでも結構邪魔に入ってるよね」
「幽谷が意外に異性に人気ってんで煽られたのか、それとも関羽の存在によって不安定になっているのか……どちらも作用してんのかもな」
「……かもね」
周瑜は、己の子孫を残したがっている。
いや、幸せな家族を夢見ている。
それは種族の違う幽谷では難しい願いだ。だが混血の関羽なら、もしかすると彼にとって良い方向に向かうかもしれない。
数人の異性から強く求められる幽谷を望む感情と、子孫を産めるかもしれない関羽を望む感情がせめぎ合って、幽谷への嫉妬が強くなっているのだとすれば────。
封統はつかの間沈黙した。
「……あいつ、女遊び激しかった筈なんだけど。え、それで分かんないの? 関羽への下心押し退けてがっつり幽谷に向いてんじゃん。全然二律背反じゃないじゃん。すっごい分かりやすくない?」
「それだけ子供作りたいんだろ」
「だから自分の子孫を残せない幽谷への感情に気付いてない────ってか最初からそんなの無かったように無意識に軌道修正してると? ……世の中随分と器用な無意識があったもんだなオイ」
「伯母上や周泰と違って、周瑜とは古い知り合いじゃねえし、あいつの詳しい心の動きは分かんねえよ。ただ……まあ、幽谷が夏侯惇には異常に愛されてるわ趙雲や諸葛亮とはちょいちょい良い雰囲気になってるわでも自分には依然つれないわ、自分は死期が近くなってるわ同族の────まあ混血だけど────関羽は靡(なび)いてくれないわ劉備っつー厄介な障害があるわで、どっち方面にしろ全く上手くいっていないのは確かだな」
「今のあいつの精神がどうなってるのか僕には分からん」
「俺にも分からねえよ。あいつみてえな目に遭ったこと無えし」
それはお前も同じことだろ。
手際良く調合を進めながら恒浪牙は、封統に話しかける。
封統は無言だ。
無言で立ち上がり、用は終わったとばかりに歩き出す。
恒浪牙は一度だけ肩越しに彼女を振り返り、すぐに視線を戻した。
「まさか俺に相談しに来るくらい、気にかけてるとはねえ」
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