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官渡の戦いから凡(およ)そ半年。
猫族は豫州(よしゅう)は許都の山奥にて、密やかな生活を送っていた。
人間の世界とは隔絶され自分達の村の中でのみ許された平穏な暮らしを尊く思い、先行きに懸念を抱き、それでも不安定な長閑さを噛み締める。
ここに来るまでの苦痛は、猫族達の胸に今でも残る。
だからこそ、この平穏が何よりもの幸運で、かけがえの無い宝であった。
「みーつけた!」
ようやっと手に入れた平穏な世界に、無邪気な声が響く。
白い猫族の少年が、茂みの中を覗き込んで金色の大きな瞳を輝かせた。
その先には、同じく猫族の闊達(かったつ)そうな少年が前のめにりなって地面に両手をついている。
「もう見つかっちまったのかよっ!?」
「だって張飛、ぜんぜん隠れてないんだもん。もっとじょうずに隠れないとダメだよー」
「んだとー! よし! 次はオレが鬼だかんな。劉備なんて、あっという間に見つけてやるから覚悟しとけよ!」
「うんっ!」
張飛に大きく頷いてみせる劉備は嬉しそうな満面の笑みを浮かべて身体を反転させる。両手両足を大きく動かして駆け出した。
それを見送った張飛は劉備に背中を向けて彼が隠れるのを待つ。
その日常の姿を、家事の片手間に眺めている少女が一人と青年が一人。関羽と趙雲である。二人並んで洗濯物を干していた。
「ふふっ、劉備ったらはりきっちゃって。いったい、どこに隠れるつもりなのかしら」
「劉備殿は張飛とかくれんぼか。楽しそうに遊んでいるな。見ているこちらまで、楽しくなってくる」
この趙雲、頭に猫の耳を持たない。猫族が人間の世界に引きずり出された後、彼らと共に生きることを選んだ人間である。
猫族に対して友好的な彼も、人間でありながら村の中に違和感無く溶け込んでいた。まるで、元々猫族と共に在ったかのように自然だ。
目元を和ませる彼に同意して頷いた関羽は、ふと背後を振り返って首を傾げた。
後方からぱたぱたと戻ってくる劉備の姿がある。
張飛は、探しに出てしまったらしく、姿はもう無い。どうやら劉備は、張飛を上手く避けて戻ってきたようだ。
「関羽ー。趙雲ー。どこか隠れるところ、ない?」
「ん? 隠れるところか? そうだなぁ……では、俺の後ろにでも隠れるか」
軽い口調で、弟に答えるかの如く言う趙雲に、関羽は声を立てて笑った。
「さすがにわかっちゃうわよ。じゃあ劉備、この籠の中に隠れてみる? 洗濯物の籠だけど、もう干し終わるし」
関羽の指差したそれは、劉備程の体型ならすっぽりと収まる大きさだ。
洗濯籠を見た劉備はちょっと考えて頷いた。二人に張飛に知らせないように釘を差し、了承したのを確認して籠に隠れた。趙雲がさり気なくその前に立ってやった。
それから暫くして、鬼は悔しげに歩いてくる。
「姉貴ー! なぁ、劉備こっちにこなかった?」
ぎくり。
分かっていた筈なのに、関羽は身体を強ばらせる。誤魔化す笑顔も、ぎこちなかった。
「き、来てないわよ」
ああ、わたしの馬鹿。
自分でも分かる隠しきれていない言葉に関羽は冷や汗を流す。
案の定、
「んー?? その反応、確かにこっちに来たと見たぜ!」
「え、ええっ? どうして、そんなことがわかるのよ」
「つーか、バレバレすぎだってー。まぁ、姉貴は昔っからウソつくのが下手だかんなー」
関羽はむうっと口を尖らせる。だが、自覚があるだけに言い返せない。
「んで、劉備どこ行ったんだよ? 教えてくれよー、姉貴ー」
「張飛、そういうことは人に聞いては駄目だぞ。こいつが困ってしまうだろう」
今度は、趙雲に窘(たしな)められた張飛が唇を尖らせる番だ。不満そうに趙雲を睨めつける。
「んだよー! つーか趙雲オマエなんで姉貴と一緒にいんだよ!」
「俺か? 俺は洗濯を手伝っていたんだよ。共に暮らしているんだ。これくらいはやらないとな」
「と、共にって……」
それは、ちょっと違うんじゃ……。
心の中でツッコんだ。
「な、なに言ってんだよオマエ! 言い方気をつけろよな! それじゃまるでオマエと姉貴が、ふ、ふ、ふうふ……」
言って、張飛の顔が爆発したように赤らむ。頭をがしがしと掻いて吼えた。
「だ―――!! って何言わせんだよ! 趙雲のバカー! もういい、他探してくる!」
くるりときびすを返してその場を逃げ出す張飛を見送りながら、趙雲は心底不思議そうに首を傾けた。
「行ってしまった。いったい張飛は何を言おうとしていたんだ?」
「さ、さぁ?」
……彼らしいわね。
心中で苦笑し、劉備の隠れる籠を見下ろした。
と、劉備が出てきた。
「ふわ――っ! あー、もう笑わないようにするのすっごく大変だったよー。張飛ってば、こんなに近くに隠れてるのに気づかないんだもんー!」
嬉しげな劉備はしかし、むっと腕組みして考え込む。
「あ、でも近くにいるのはバレちゃってるから……えっと、ぼく行くね!」
「ふふ、がんばってね」
劉備は頷いて、張飛とは違う方向に走っていった。
「劉備も張飛も楽しそうね」
「ああ、元気なものだな。この平和が長く続けばいいんだが……」
「まったくだな」
ふと、第三者の声。
関羽は皺を伸ばす手を止めて身体の向きを変えた。
陰りを帯びた表情の、壮年の男性がこちらに歩み寄っていた。
彼女は男性に笑いかけた。
「世平おじさん、おかえりなさい。今日はどこに行ってたの?」
「あぁ、近くの村の様子を見にな」
途端、二人の表情が引き締まる。
「どうだった?」
「いや、特にこれといったことはねぇよ」
「そう、よかった……」
関羽の育て親張世平は、時折山を下りて付近の村の様子を探っていた。
人目を避けた生活を送っていたつもりではあれど、近隣に猫族の村について知られている。何処かで、見られてしまったのだろう。
猫族の長劉備は半年前、その身に宿る古の大妖、金眼の呪いに呑まれて大勢の人間を虐殺し、生者にも拭い去れぬ恐怖という傷を深く刻んでしまった。
猫族に対する蔑視に、憎悪と恐怖が加わって、彼らがどんな行動に出るかは分からない。
それを危惧し、世平はままに人間達の様子を見ているのだった。
眦を下げた関羽の頭を撫で、世平は表情を弛める。
「そう暗い顔するな。心配ばかりしてたら、疲れちまうぞ?」
上目遣いに見上げれば、ぽふぽふと軽く叩かれた。
「あれから劉備様だって落ち着いてる。もう、暴走することもないだろう。それに幸か不幸か、ここは曹操の国だ。そういった意味では、曹操の存在が人間たちの抑制になっている」
「猫族をここに住まわせたのは、曹操だからな。民衆も下手な手出しは、出来ないだろう」
――――曹操。
猫族を、己の目的の為だけに人間の世界へと無理矢理に連れ出した男。言わば、諸悪の根元だ。
猫族にとっては憎んでも憎みきれない相手ではあれど、猫族に再びの平穏を与えた存在でもある。
正直、どんな恩を受けても有り難くは思えないけれど――――。
「そうね……。そういった意味では、曹操に感謝かしら」
彼の考えていることは、関羽には分からない。
分からなくて、不気味だ。
感謝すると言いながら釈然としない自身に吐息を漏らしながら、関羽はふと耳をぴんと立てて首を巡らせた。
「……広場の方が騒がしいな。なにか、あったようだ」
「行ってみよう」
関羽は頷いた。
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