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 狐狸一族は船を持たぬ。
 故に水面を走っていく。体力に底の無い、身体能力が並外れた彼らならば陸口くらい船よりも速く向かうことが出来るのだ。連合軍より先んじる彼らは陸口に陣を整える。
 その中で水面に浮かぶ術を持たぬ周泰と幽谷は、尚香の護衛として彼女の側に立つ。

 幽谷は気が気でなかった。
 今朝からずっと尚香の様子が思わしくないのだ。足取りはふらふらとしているし、顔面蒼白なのだ。意識も朦朧としているようで、話しかけても反応が無いか、あってもまともなものではない。
 しかしそれでも劉備と共に陸口に向かうと言って譲らないのだから、苛立つ。劉備のあの態度が許せない。同時に尚香が傷ついてしまうからと口に鍵をかける自分がもどかしくもある。

 陸口に至るまで、幽谷はずっと彼女の様子を案じ続けた。

 が。

 いざ降りようとした時のこと。
 出発時よりも酷い顔色で降りようとする尚香に待ったをかけた。


「尚香様。せめて降りる前に暫しお座りになられては如何ですか。船を下りたばかりですと足取りは不安定でしょう。よろめかれて倒れられては大変です」

「……え、ええ……そうね……そうするわ」


 言った直後である。
 彼女の小さな身体は幽谷へ倒れ込んだ。
 咄嗟に受け止めて抱え上げる。


「尚香様……!?」

「恒浪牙殿を呼んでくる。お前は天幕へ」

「分かりました。尚香様。暫しご辛抱なさいませ」


 気を失っている尚香に顔をしかめ、幽谷は大きく足を踏み出した。



‡‡‡




 周泰が恒浪牙を呼んだことから、尚香が倒れたことは、瞬く間に猫族にも伝わった。
 大慌てで、しかし静かに飛び込んできた彼らは不安そうに、横たわる尚香の様子を窺う。

 皆で眺めている中、尚香が呻きゆっくりと上体を起こした。幽谷は即座に背中に手を置いて支えた。

 関羽が歩み寄り、顔色を窺う。ぞわりと浮かんだのは嫌悪だ。反射的に関羽の前に腕をやり、それ以上近付くことを禁じた。関羽が一瞬悲しげに眉根を下げたが、幽谷は構わなかった。


「尚香様……大丈夫?」

「…………ここは?」


 ぼんやりとしている。幽谷が顔を覗き込んでも不思議そうな顔をして見返してくるだけだ。
 ……倒れてしまったことで、混乱してしまっているのだろうか。

 恒浪牙を見やると、彼は尚香の手を取り脈を計った。首や額にも手を当て、目元を軽く下に引っ張ってあれこれと診察をする。


「体調は……悪いようではありませんね。目覚めたばかりで頭がまだ完全に覚醒していないのでしょう」

「そうですか……」


 恒浪牙が言うのなら、きっとそうなのだろう。
 ひとまずほっと息をつくと、関定が不安そうに問いを投げた。


「なあ……呉のお姫様が倒れたって……ヤバイよな?」

「あまり歓迎できない状況なのは確かだね。でも大事にならなくて良かったよ」

「暫く安静にしていれば、大丈夫でしょう」

「でも、やっぱり心配ね」

「私がおりますから、ご心配無く」


 幽谷が即座にぴしゃりと言い返すと、関羽が口を噤む。一歩後退した。
 関羽の様子に猫族が怪訝に眉根を寄せる。

 恒浪牙は関羽を静かに見据える幽谷の肩を叩いて宥めた。

 尚香はその一連のやりとりをぼんやりと眺め、


「あなたたちは……?」

「……尚香様」


 幽谷が手短に、現在の状況を教える。猫族と呉軍が同盟を組み曹操軍と相対す為に陸口に陣を敷いたこと、尚香が猫族の長劉備と婚約しこの陸口までついてきていること────後者は、あまり気が進まなかったけれども、察した恒浪牙が口を挟んで補足した。
 思考が定まっていない尚香は静かにそれを聞き、


「……戦が起きるの?」

「もはや戦いは避けられない状況だ。今は呉と猫族が協力して曹操と戦う準備をしているところだ」

「そう……」


 その時だ。


「尚香! 大丈夫?」


 慌てて劉備が駆け込んできた。
 それに尚香の身体が跳ね上がる。
 驚いたのだろう尚香の背中をさすり、幽谷は劉備をキツく睨めつけた。

 劉備が怯んで足を止めたのに、関羽が取りなすように声をかける。


「あ、劉備! 尚香様は大丈夫よ。安静にしていれば良くなるそうだから」

「劉備……? っ! この気は!!」

「?」

「見つけたわ…………」

「尚香様? 見つけたとは?」

「いえ、何でもないわ」


 うっすらと、笑みを浮かべる。
 その笑みに幽谷は違和感を感じた。
 尚香様……こんな顔で笑われたことは、一度も無いわ。
 たった半年しかお仕えしていないからそう思ってしまうのだろうか。
 尚香の顔を覗き込もうとすると、関定のはしゃいだ声が聞こえた。


「劉備様もやっぱり尚香様が心配なんですね! なんたって、お二人は結婚しますもんね!」

「結婚……? ああ……さっきの婚約の話……」

「そうですよ! 我が猫族の長と呉のお姫様が結婚! 最初はオレたちびっくりしたんですから」


 尚香は結婚と戦という言葉を反芻(はんすう)し、小さく笑った。


「それなら好都合だわ……」

「尚香様?」

「尚香、倒れた原因がわからないのなら油断しちゃいけない。ゆっくり休んで」


 劉備の言葉に、尚香は目を細め笑顔で頷いた。


「劉備……様。心配をかけてしまってすみません。私はもう大丈夫です……。ええ……もう大丈夫」


 全部……思い出したから…………。
 幽谷は眉根を寄せた。

 思い出した……何を?


「え?」

「いいえ……こちらの話です……。それよりも劉備様は戦をされるのでしょう? 早く準備をしてきて下さい……」

「? 尚香?」

「私、あなたの戦う姿を早く見たいの……」


 どういうこと?
 幽谷は恒浪牙を見やる。
 だが彼も、怪訝そうだ。首を傾げ腕を組んでいる。


「まだ、頭がイってんのか……?」


 そんな呟きが聞こえた。
 けれども尚香には、ぼんやりとしている様子はもう無い。
 幽谷は尚香を呼んだ。


「なあに?」

「いえ……お加減は」

「ええ。もう大丈夫よ。あなたにも心配をかけてしまってごめんなさい」

「あ、いえ……」


 違和感は拭えない。
 やはり倒れた衝撃で何処か脳に異常を来してしまったのかもしれない。脳は脆い。ちょっとの刺激でも命の危険が伴う。
 恒浪牙を見やると、彼はぱんぱんと手を叩いた。


「はい。彼女のことは私と、彼女の侍女の幽谷にお任せ下さいな。周泰は諸葛亮殿と周瑜殿にこのことを説明して、何か指示があればこちらに。無いようであれば私の代わりに伯母上の側にいて下さい」

「承知」

「さ、猫族の皆さんも」

「そうだな。こんなに大勢に押しかけていては静かに休めない。それに、狐狸一族の方々の手伝いもせねばなるまい。我々はそろそろ失礼しよう」


 関羽もこれに同意を示す。猫族に戻ろうと声をかけ尚香に頭を下げた。


「それじゃあ尚香様。ゆっくり休んでください」

「はい……」


 ぞろぞろと出て行く猫族を見送っていると、恒浪牙が幽谷を呼ぶ。
 部屋の隅に行き、小声で話す。


「どうも、未だ意識に障害が生じてしまっているようです。一過性のものでしょうが、これから私が側にいない時、何か異変を察した場合は速やかに私に報せて下さい。その為にあなたはなるべく尚香様のお側を離れぬように」

「了解致しました」


 幽谷は大きく頷いた。

 恒浪牙は微笑み、尚香のもとへ戻る。


「尚香様。今の状態で私のことはお分かりになりますか?」

「いえ……申し訳ありません。正直に言いますと、まだぼんやりとしていて……」

「でしょうね。私は、医者の恒浪牙と申します。恐らくは倒れた際の脳への衝撃の所為でしょう。暫くはこのまま安静に、横になってお過ごし下さい。私も、あなたの侍女の幽谷も、あなたが回復なさるまではここにおります故、身体に異変がありましたら、お隠しにならず、仰って下さい」

「分かりました。あの……ありがとうございます。幽谷、も……迷惑をかけます」

「いえ。当然のことですから」


 尚香は、ふわりと微笑んだ。
 だが、やはり違和感は拭えなかった。



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