18





『我が尊き父よ。見て下さいまし。ようやっと、ようやっとわたくしの妹が生まれたのでございます。……ああ、いえ、この子はわたくしの子供になるのかしら』


 はしゃいだ声はとても幸せそうだ。嬉しくて嬉しくてたまらない。胸がはちきれんばかりの暖かな感情が全身に満ちていく。

 豪奢な衣に身を包んだ老爺は彼女に、目を細めた。我が子のように育て上げ側に置いていた彼女の幸せ極まるこの笑顔がずっと見たかったのだ。


『我が愛らしき宝玉よ。その子はそなたの子であり、妹である。朕(ちん)がそなたにそうしたように、そなたが正しく導くべきややに名前を付けておあげ』

『はい。嬉しゅうございますわ。されども歓喜が極まってしまって良い名前が思い付きませんの。我が尊き父よ。この子と共に外を歩きたいのです。そうして、この子に色んな物を見せて、色んな反応をさせて、名前を与えとうございます。よろしいでしょうか』


 とろける笑みで請う娘に老爺が許しを出さぬ筈はない。皺深い顔に慈父の笑みを湛えてゆっくりと大きく頷いてやった。

 彼女は歓喜に頬を赤らめ、生まれたばかりの小さな《赤い雌狐》を抱き締めた。



‡‡‡




 目覚めた幽谷は頬がひやりと冷えたのに反射的に手をやった。濡れている。
 泣いていたのだ。


「私……」


 夢を見ていた気がする。
 内容は覚えていない。けれどもとても幸せで、この至福が永遠に続くものと信じていた────気がする。
 少しばかり痛い目元は、ひょっとすると赤くなっているかもしれない。
 尚香に会う前に顔を冷水に浸けようと寝台から降りようとし、はたと気付く。

 ここは、違う。
 自分の部屋ではない。
 首を傾けると、扉の外に気配を感じ動きを止めた。

 相手は幽谷が目覚めているとは思っていなかったのだろう。声をかけることも無く扉を開けた。
 静かに、様子を窺うように顔を出したのは趙雲だ。

 彼は幽谷の姿を見て軽く目を瞠り安堵したように微笑んだ。


「起きて大丈夫なのか。腕はどうだ?」

「腕……?」


 腕が、どうかしたのか。
 幽谷は己の両腕を見下ろし、あっと声を漏らした。

 そう言えば私、昨夜腕を痛めたのだったわ。
 どうして痛めたのだったか。


「昨夜────」


 そこで、息を詰まらせる。
 ……ああ、そうだ。
 私は昨夜、外で李典────否、利天と対峙した。
 腕を負傷したのはその時。

 ぞわり。全身が粟立った。
 利天が苦しみ始めた直後の恐怖が蘇る。本能的な恐怖には、確かに畏怖がある。ただ恐ろしいだけではないのだ。神の如き圧倒的な存在に感じる尊崇が極まった感情を、自分は確かに抱いている。
 《アレ》に。

 震え始めた己の身体を抱き締めると、趙雲が察して速やかに幽谷の前に片膝を付いた。顔を覗き込み頬に手を当てた。優しく撫でられる。
 その手の温度に、現実を感じて安堵する。


「泣いていたのか」

「あ、ああ……何か、夢を見ていたようで……」


 ただ幸せな夢だった気がするだけで内容が分からないから、それだけを伝える。
 趙雲は目を細め、そっと目元を親指で撫でた。


「大丈夫だ。もうあの将は江夏にはいない。兵士にも周囲を巡視させた。もし曹操軍と対峙した時、怖くなったら俺のところに来ると良い」

「……いえ、役目を放り投げることは出来ませんので」


 狐狸一族は基本一族だけで別行動を取る。となると趙雲達劉備軍とも距離を置いて戦場に配置される可能性が高い。そんな中自分だけが怯えたからと離脱することは許されない。
 それを言うと、趙雲は「そうか」と幽谷の両手を慎重に取った。だが痛みは無い。恒浪牙が、完全に癒してくれたのだろう。


「ならばせめて、こうしていよう」

「……ありがとうございます」


 人の温もりに触れていると、とても落ち着く。
 深呼吸を一度して趙雲を見下ろすと、唐突に扉が乱暴に開かれた。

 不機嫌な顔をしてずかずかと入ってきたのは周瑜である。後ろには、呆れ顔の恒浪牙。前髪の下で血管が浮き上がっているように見えたのは、見間違いだろうか。

 周瑜は幽谷の腕を乱暴に掴むと無理矢理に趙雲の手を剥がし立たせた。


「周瑜殿?」

「そろそろ出立だ。アンタは周泰のところで待機してろ」

「それは分かりましたが……何故不機嫌でいらっしゃるのです」

「別に。いつも通りだ」


 そんなむっとした顔で言われても……。
 幽谷は趙雲を何故か睨んで牽制する周瑜が不可思議でならない。恒浪牙を見やると、彼は後頭部を掻き、ゆっくりと近付いた。


「おっと足が滑りました」

「いって!?」


 思い切り足を踏みつけた。これで足が滑った筈がない。
 更には周瑜の脇腹に手刀を叩き込み撃沈させた。うずくまった隙に幽谷の腕を引き腕を触診する。


「ふむ。さすが、四霊。寝ている間に水に浸したのが良かったのですね。状態は良好です。これで存分に戦えるでしょう」

「恒浪牙殿。ありがとうございます」

「いえいえ。私達も李典が近くにまで来ていたことに全く気付いておらなんだ故。怖い思いをさせてしまって、申し訳ない。趙雲殿。申し訳ありませんが、幽谷を周泰のところまで送ってあげて下さい。彼らはもう、桟橋に集まっていますから」

「承知した。幽谷、先に目元を冷やそう。少し赤い」


 周瑜には目もくれず、恒浪牙は幽谷を部屋から出し後から出てきた趙雲に託した。

 趙雲は幽谷の手を握ってやり、いたわりながら歩き出した。

 幽谷は神妙に従う。



‡‡‡




 恒浪牙には周瑜という猫族がどうにも理解出来ない。
 幽谷に関して強い執着を見せるが、関羽にも言い寄る。どちらが本命なのかはうっすらと分かりかけてはいるが、本人に自覚が無いというのがまた解せない。


「お前さ、幽谷のこと本気で好きだろ」

「アンタ、いきなり口調変えるなよ。こっちは毎回戸惑うんだが」

「誤魔化すな」


 キツく言うと、周瑜は立ち上がりつつ恒浪牙を横目に睨んだ。


「あいつは狐狸一族だ。狐狸一族は今は呉に手を貸している。だが幽谷が劉備軍の誰かと良い仲になったとなれば、甘寧がどんな心変わりをするか分からない。まだ孫権が未熟なうちは、甘寧には呉側にいてもらわなければ困るんだよ」

「……それが、お前の本心か?」


 問えば、彼は口角をつり上げた。作り笑いであることがよく分かる。


「甘寧に言うなら言えば良い」

「馬鹿か。てめえのちっこい考えなんぞあいつの耳に入れるまでもない。俺はそれが本当に心からそう思って言ってるのか訊いてんだ」

「何言ってる」


 周瑜は怪訝そうだ。

 恒浪牙はやおら嘆息した。こりゃ、最後まで自覚しねえな、こいつ。
 己の死期が近いと悟って、焦り故に己に鈍感になっているのかもしれない。

 ……ま、鈍感のままなら鈍感のままでも構わないんだが。


「まあ良いや。俺達も行くぞ。幽谷を連れてこいと婆に言われただけなんだ、遅れてなんやかんや言われたくねえ」


 恒浪牙は周瑜の頭をぱしんと叩き、部屋を出る。

 本当のところ、すぐにでも甘寧の所行きたいが、彼は結局、扉の脇で周瑜を待った。



.

- 129 -


[*前] | [次#]

ページ:129/220

しおり