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 幽谷が趙雲に運ばれて部屋を訪れた時、恒浪牙はやはりこうなったかと溜息をついた。


「どうぞ」

「失礼する」

「幽谷をこちらに」


 幽谷の状態を見ても反応の薄い恒浪牙に、趙雲はしかし何の疑問も浮かばなかった。彼は腕の良い医者だ、冷静に怪我の具合を診てくれているのだろうと、曇りの無い信頼故のことである。以前かけた洗脳の術が、今も若干残っている可能性もあるが。

 恒浪牙はまず幽谷の腕の治療に当たった。てきぱきと素早く処置を施す。幽谷を起こさぬよう細心の注意を払うより、迅速に治療を済ませてしまうことを優先させた。
 故に痛みはあれども、幽谷は目覚めない。
 脈を計り眼球の様子を確認しても、彼女の意識は戻らない。

 さすがに疑問を抱いたが、治療を終えて趙雲に話を聞いているうちに納得した。


「そうですか。酷く怯えた様子で……」

「余程恐ろしい目に遭ったようだ。恒浪牙殿なら、精神的な部分へも治療は施せるだろうか」

「まあ、一応は出来ますが……本人の心の奥底に染み着いてしまっているとすれば、難儀ですね。それだけ怯えていたのであれば何をされたのか思い出させるのは大変酷ですし、我らの状況も悠長にしていられません。幽谷も己のことよりも戦のことを優先するでしょう。ゆっくり癒してあげられるのは全てが終わった後になりますね」


 何が遭ったのかは、大体は想像がつく。
 先程江夏城からそう遠く無い距離から急速に膨れ上がる邪気を捉えた。それはつかの間のことですぐに萎んで消えてしまった。

 その邪気の中心は間違い無く、趙雲が見かけた李典だ。いや、その時は利天であった可能性が高い。
 一人でいた幽谷を襲ったところにあのようなことになり無用な災害をもたらす前に慌てて退散したのだ。


 荒れ野中に在る《玉藻(ぎょくそう)》の恐ろしさを、恒浪牙は知っている。


 幽谷も彼女の邪気をその身に受け本能が強い畏怖の念を抱き、絶入して逃避した。

 無理もない。恒浪牙自身もきっと────否、絶対に玉藻の邪気を身に受けたくなどない。近付くことも出来ぬ。
 恒浪牙とて玉藻には敵わぬ。塵を払うように容易く掃かれてしまうだろう。
 そんな存在を間近に捉えてしまった幽谷に、心から同情する。


「今宵はこのまま私が看ましょう。趙雲殿は、身体を休ませておきなさい。大きな戦に挑む将が、出発の日であろうと身体を万全にしないとは良い笑い物ですよ。寝不足が原因で後れを取ったとしても、私は治療して差し上げませんからね」

「……分かった。では、幽谷のことはよろしく頼む」

「はい。しっかりと」


 恒浪牙は部屋を辞する趙雲を見送り、ほうと吐息を漏らした。


「……張遼を部屋に送り届けた後で良かった」


 胸を撫で降ろす。

 張遼の状態は思ったよりも安定していた。
 何の術も施さず、体調の確認をするだけに留めておいた。尚香についても、恒浪牙は今は何もしない。

 彼女もまた逼迫(ひっぱく)した状況であると分かっているが故、現段階では尚香の中に逃げ込んだ白銅をどうこうすることは出来ない。

 劉備が甘寧の思うように、金眼の力に勝っていれば、それでも構わなかっただろう。

 甘寧の望みとは、全く違う現実。
 これから来るべき《死闘》をどう乗り越えるか、最悪の状況を幾つも考えてそれぞれ対策を急いで模索する甘寧の精神も、段々とすり減っている。考えれば考える程、彼女の心は疲れ果てていく。
 それを周囲に晒さぬは、瑞獣九尾の狐たる矜持と甘寧自身を支える覚悟故だ。

 劉備に白銅を押しつける代わり、甘寧は白銅以上に強大なる玉藻とその身一つで相対し、今度こそ討滅せんとしている。
 きっと、恒浪牙と共に金眼と相対した甘寧の弟と同じような末路を辿るのだろう。

 甘寧が果てれば瑞獣としての九尾の狐は、絶えてしまう。

 天帝は、これを良しとしているのだろうか?
 恒浪牙にとってその御稜威(みいつ)故に御身を拝することすら畏れ多い天帝は、甘寧達にとって親友であり、また父でもある。
 甘寧は胸の内を天帝にすでに話しているだろう。

 止められはしなかったのか。どのようにして天帝を説得したのか。


「────なんて、私が考えたとて詮無いことか」


 こちらは甘寧の意志を尊重するだけだ。
 よしや玉藻と共に果てる覚悟があると言えども、恒浪牙も蒋欽も狐狸一族全体も、黙って彼女を許すだろう。
 彼女を苦しみから解放するには、それしか道は無いのだと、分かってしまっているから。
 考えを巡らせるだけ、無駄なことだ。

 恒浪牙は嘆息混じりに幽谷を見下ろした。
 ゆっくりと腰を上げて再び薬の調合に戻った。

 それから間も無くのこと。
 声も無く扉が開き甘寧が無言で入ってきた。

 恒浪牙が手を取め、視線をやってからようやっと口を開く。


「幽谷の容態は?」

「幸い腕の骨が砕けた程度で済んだようです」


 甘寧は「そうか」と肩から力を抜いた。
 幽谷に歩み寄り、頭をそっと撫でてやる。


「怖かったな。幽谷」

「周泰に、何か変化は?」

「暴走しかけたが、理性と赫蘭の抑止力で何とか事無きを得たようだ。今は封統を側に置いて部屋で休ませてある。蒋欽は張遼を監視させてる」

「そうですか。……それで、ここにお出でになったのは、何も幽谷の様子が気になったからだけではありませんよね、伯母上」


 甘寧が徐(おもむろ)に恒浪牙を振り返る。


「幽谷の感覚を鈍らせろ。白銅の気配が察せぬように」


 恒浪牙は目を細めた。
 しかし抗議などは一切無い。拱手(きょうしゅ)し、了承を示した。


「では、後程」

「じゃあオレは戻る。劉備の邪気を見て来なければならん。幽谷のことは頼んだぞ」

「はい」


 足早に部屋を出ていく甘寧の背中は、小さい。
 恒浪牙は閉じられた扉をいつまでも見つめ、溜息をつく。


「こんな時にこそ、あんたがいればな……興覇(こうは)」


 そう。
 あんたがいれば、あの人もここまで苦しむことは無かっただろう。
 詮無いことを、彼は思う。



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