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 恐ろしい氷に包まれたかのようだった。
 一気に膨れ上がる恐怖が噴出するかの如く悲鳴を上げた瞬間、目の前に黄金と漆黒が迫る。

 その後のことは、覚えていない。

 気絶していたのだろうか。
 揺さぶられる感覚に浮上する意識に押されて瞼を押し上げれば間近に趙雲の顔があって軽く驚いた。
 焦りに強ばった顔は和らぎ、薄く笑む。彼の姿が明るく浮き上がって見えるのは、側の地面に突き立てられた松明の灯りだ。

 揺らめく炎を見、そこで自身の上体が彼の腕に支えられていることに気付き、幽谷はすぐに腹に力を込め己の力で支えた。


「怪我は?」

「……怪我、は」


 立ち上がろうとして、腕に痛み。
 ……利天に蹴られ盾としたた場所だ。
 改めて見下ろすと、両腕とも広範囲が赤黒く染まり、腫れ上がって熱を持っている。今更、腕の異変を感じた。


「腕以外には、何も」

「……そうか」


 趙雲に支えてもらいながら立ち上がる。幽谷が一人で立てると確認すると、松明を取る前に、脇に置いていた大剣を拾い上げ鞘に収めた。その後に、松明を抜く。

 松明の灯りを頼りに幽谷は徐(おもむろ)に周囲を見渡した。
 自分達以外に誰もいない。

 利天は、何処に行った?

 眉根を寄せ、趙雲を見上げる。


「……趙雲殿。あなたがここに来た時の状況をお教え願えますか」


 趙雲は一瞬目を細め、周囲を見渡す。


「俺が来た時……頭を抱えて苦しむ少年と、地面に倒れているお前がいた。俺が武器を向けると、少年は苦しみながら、北へ逃げていった。彼が何者か、分かるか」

「……」


 幽谷は趙雲の示した北を見据え、曹操軍の将、李典であることを伝えた。利天と言う名は伏せた。幽谷自身、よく分かっていないことを彼に言っても戸惑わせるだけだ。

 顎に手を添え、幽谷は記憶を手繰る。
 記憶は少し曖昧だ。倒れる寸前の記憶がぼやけている。だが思い出そうと思えば思い出せると、そんな気がした。

 記憶が明確に残っているのは利天が頭を抱えて苦しみ始めた時まで。

 その後、私は────私は、甘寧達のもとへ行こうとしたのだ。
 けれども出来なかった。

 何故か。


 それは────。


「────」


 幽谷はひゅっと息を吸った。
 膝から力が抜け崩れ落ちた身体を趙雲が咄嗟に支えた。


「幽谷!? どうしたんだ!」

「あ……っ」


 足に何かが当たったような気がして趙雲を押し飛ばす。自力で立っていられず座り込む。

 思い出した。
 思い出してしまった。


 足を舐めた黒。

 自身に迫った黒。

 黒に浮かぶ金。

 金の奥底に渦巻くあらゆる強烈な負の想念。


 恐ろしいと、本能から恐怖に震えた。
 腫れて太くなってしまった両腕で己を抱き締める。痛みがあった。この程度の痛みで恐怖は払拭出来ぬ。

 あれは、決して相対してはならぬ存在だ。
 遭いたくない。
 私は二度とあの化け物と対峙したくない……!

 肌に爪を立てる。

 すると趙雲がその両腕を掴み、強引に剥がす。爪が肌を裂いた。

 彼を見上げる前に、背中に腕が回り温もりに包まれる。
 抱き締められている。


「落ち着け、幽谷。ここにはもうあの少年はいない。俺とお前だけだ」


 背中を一定の調子で叩きながら、赤子をあやすように宥める。

 大丈夫だと繰り返し言い聞かされ、徐々に震えが収まっていく。恐怖も落ち着き、平静を取り戻した。

 すると何故か、急激に眠くなっていく。

 ああ、そうか。
 これは逃避だ。
 本能が、一時だけでも、逃げようとしているのだ。

 馬鹿な私だ。
 そんな付け焼き刃、何の意味も持たないというのに────……。



‡‡‡




 力を失った幽谷の身体を抱き上げる。
 彼女は瞼を閉じ、静かな寝息を立てていた。

 趙雲はほっと息を吐き、松明を放り捨てた。踏み締めてしっかりと火を消し、身を翻す。松明の灯りが無ければ足下が不安だが、幽谷を抱き上げたまま松明を持つことは危険だ。彼女の綺麗な肌を焼いてしまう恐れがある。

 慎重に行けば良かろうと闇に慣れるの待って歩き出した。

 が、暫く歩いた頃。

 ふと周囲に青い火の玉が浮かび上がった。

 ……。

 ……火の玉?

 いや、違う。
 これは火ではない。
 内部に光を宿し、火に似せて揺らめく水だ。

 警戒心から囲うように浮遊する光持つ水の塊を睨んでいると、パキリと音がした。


「遅かったか」

「……封統」


 先程の音は枝を踏んだのだろう。
 近くの木の影から現れ、大股にこちらへ歩いてくる少女の頭には一つだけ猫の耳がある。

 狐狸一族に所属する混血の猫族、封統。
 ほとんど会話を交わしたことも無い彼女は、趙雲を冷たく一瞥して幽谷の顔に手をやった。頬を撫で首筋に指を押しつける。脈を計っていた。


「負傷は腕だけか。……いや、それだけじゃないか」

「封統」

「何をしてる。さっさと歩け」


 封統はすげなくきびすを返し、城に向かって歩き出した。先程と比べて歩調が幾分かゆっくりだった。趙雲が歩き出すと、途端に速くなる。

 封統は何も語らなかった。話しかけようにも趙雲からの言葉など受け入れられまい。背中が、強く拒絶している。

 『遅かったか』彼女はそう言った。
 もしやあの場で幽谷が李典に何をされたのか、分かっているのだろうか。助けに来ようとしていたのだろうか。

 幽谷の怯えようは尋常ではなかった。
 ほとんど表情の動かぬ彼女があそこまで恐怖に青ざめ、顔を強ばらせ肌に爪を立てる程のことが起こったのだ。

 そんな中、曹操軍の将がこんな所に現れたことすら露知らず、己は曹操との戦を前に落ち着かぬ我が身の為のうのうと城の外を散策していた。せめてそれがもっと早く、そしてここまで足を伸ばしていれば────と、仕方のない慚愧(ざんき)の念を抱く。
 下唇を噛み締める。

 封統は、そんな趙雲の様子など一切無視し、城に至ると光る水塊を落とした。石畳に複数のシミを作った。水の中にあった光源は、何処にも無い。
 頼りない炎に照らされる薄暗い廊下を進んでいると、突き当たりの角から周瑜が現れる。

 彼は幽谷の姿を見るなりぎょっとした。


「幽谷!?」

「五月蠅い。お前はどっか行ってろよ」


 封統が野良犬を追い払うが如くぞんざいに片手を振る。

 周瑜はそれを無視し、趙雲の腕の中で眠り続ける幽谷を凝視した。腕の惨状にも気付き、眉根を寄せる。


「これは……」

「曹操軍の李典が現れ、幽谷と相対していた。怪我は腕以外見受けられない。お前は諸葛亮のもとに行ってこのことを伝えろ。趙雲、お前はそのまま恒浪牙にそいつを診させろ。今は自分の部屋で薬の調合をしている筈だ。その後お前の見たことを僕やうちの長に詳しく話してもらう。その上で狐狸一族で話し合うから、お前らに話すのはそれからだ」

「分かった」


 封統は周瑜を視線で促した。戦への出立を前に、こんな事態だ。彼女の視線は厳しい。

 都督の周瑜も茶化すことも無く頷きはしたものの、何処か釈然としない様子である。


「封統。あの李典に幽谷が後れを取るのか?」

「さあな。僕も趙雲も現場を見ていた訳じゃない。何が遭ったのか、幽谷の目覚めを待って訊いてみるしかないさ。今はとにかく出立を急げ。曹操軍に先を越されたら僕達の敗けだ。無駄な手間を挟める状況じゃない」

「……分かった」


 周瑜は幽谷を見やり、疑わしげに歩き去る封統を見やった。

 趙雲も周瑜の脇を通過し、足早に恒浪牙の部屋へ向かう。
 恒浪牙は天仙であり、名医だ。彼なら、幽谷の精神的な負担も、幾らか緩和してくれるかもしれない。

 早く幽谷を助けて欲しいと、気持ちが歩調にも表れてしまう。

 故に、彼は気付かなかった。


 周瑜が、己の後ろ姿を、封統に向けたものとは全く違う視線を向けていることに。


 それはきっと、周瑜本人も、分かっていない。



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