14
ささくれ立った気持ちが収まらない。
どのくらい歩いただろう。
我に返った時にはすでに江夏城は地平線にうっすら見える程離れていた。
さすがに戻らなければときびすを返した。
だが、二歩進んだところで止まってしまう。
幽谷はほうと吐息を漏らし天を仰いだ。
満点の星空が、今は五月蠅い。いつもなら美しさに圧倒されるのに、羽虫が集まっているかのようで不快な景色だ。
こんな状態で戻れはすまい。
ちっとも、頭は冷えてくれなかった。
落ち着きたいのに、落ち着けない。
こんな状態になるまでの怒りなど覚えたことが無い。対処法が分からない。
困窮すら苛立ちに変換されて収拾がつかなかった。
仕方なく、沿って歩いていた川縁に座り、両足を漬ける。冷たい水にやや強めに揉まれる。
少しは気分が和らぐだろうか。和らいで欲しい。
落ち着きたい心とは裏腹に、脳裏に劉備の姿が蘇る。
邪に染まり、尚香を蔑ろに、棄(す)てても構わない物のように扱う彼の笑顔が過ぎる。神経を逆撫でしていく。
嗚呼、どうしたら治まるの……。
途方に暮れる。
誰にも会いたくない。会ってはならない。
きっと、この感情をぶつけてしまう。
けれども自分ではこの感情の抑え方が見つからない。
両手で顔を覆って長々と溜息をつく。
胸一杯に空気を吸い込み、肺が潰れる程に吐き出しても、無駄だ。
どうすれば良い?
どうすれば────。
「────もし、そこの御方」
はっと顔を上げる。匕首を握って立ち上がったのは反射だった。
しかし背後に立っていたのが旅装束の女性であることに気付き、すぐさま外套の下に隠し謝罪した。
幽谷とほぼ同じかやや上の背丈の彼女は、女性にしては高身長の部類に入る。女性らしい柔らかな衣に包まれた身体も、深窓の姫君と言うにはがたいが良いように思う。化粧を施した顔も、女性的に秀麗だが、凛々しく引き締まっている。張り詰めた、研ぎ澄ました刃のような、半端な覚悟では触れられぬ美しさだ。
恐らくは、武術を体得しているのだろう。
少々の警戒心を抱え、幽谷は目の前の女性に向き直る。
女性は、幽谷の警戒を感じ取ったようだ。
くすりと笑って、懐から一振りの匕首を取り出した。
「今ではもう没落しておりますが、わたくし、武門の家の生まれですの。今でも父の教えで旅の合間にも鍛錬を欠かしておりませんから、もし怖がらせてしまったのでしたら、ごめんなさい」
「……いえ。私に何か?」
僅かな警戒は、しかし解かない。
女性は困ったように笑い、匕首を懐に仕舞った。
「申し訳ありませんが、江夏へは、このままあちらに真っ直ぐ向かえばよろしいのでしょうか。わたくし、目が少し悪くて、暗くなってしまうと遠くの景色がほぼ全く見えなくって……近くに人影を見つけられて良かったわ」
「江夏へ何をしに?」
「叔父を訪ねに。家を失ってからずっと長く旅をしておりますが、定期的に叔父のもとに顔を出すようにしているのです。ずっと心配をかけてしまっていますから」
「そうですか。江夏へはあなたの仰る通りに進まれればさほど経たずに至りましょう」
「ああ、ありがとうございます」
女性は、深々と頭を下げた。重ねて何度も謝辞をかけ、川沿いに歩き出す。
目が悪いと言いながら、このような夜中に歩みを止めぬとは、無謀なことだ。
江夏まで送り届けた方が良いのだとは思うのだけれど、未だ心が落ち着いていない。見も知らぬ女性に八つ当たりなどしては、申し訳ない。
きっとまだその辺を周瑜が歩いているだろう。彼に運良く出会って案内してもらえば良い。
そう思いながら女性に背を向け、気を抜いたほんの一瞬である。
「……!」
ぶわり。背後で殺気が膨れ上がる。
身体は勝手に振り返り、匕首を振りかぶった。
金属音と共に火花が散る。
女性が、双剣を持って跳び退る。
くつりと口角をつり上げ咽の奥で笑った。
「……犀家の幽谷が、変わり果てたものだな」
低い声だ。先程まで発していたものとはまるで違う。
幽谷は瞠目した。女ではなく、男────。
「分かりやすく疑う点を多くしてやったと言うのに、あの程度の警戒しか持たねえとは。犀家では随一の腕を誇っていたお前が、見る影も無い程落ちぶれた」
「犀家の……幽谷」
それが、元の私?
一瞬思案に没入しかけた意識を引き上げ、幽谷は匕首を構え直す。
化粧で女性らしく美しく整えた男は、双剣をくるくると回し半身の構えを取った。しかし、双剣はどちらも地面に向けられている。
一見、無防備な姿だ。けれど隙が無い。彼は、こちらを見下している。
分かりやすい挑発。
幽谷は眉間に皺を寄せ相手の出方を窺った。頭の中で、彼の言葉を繰り返しながら。
幽谷の心中を察したか、男は鼻で一笑する。
「気になるか。本来の自分がどんな人物だったのか」
「……」
「教えてやろうか。お前の基になった娘、その娘が想いを寄せたお前の教育係、お前が殺さなければならなかった女仙────俺はお前の抱える疑問に答えてやれるし、思い出させてやれる」
ぴくり、と手が動いた。それは幽谷の感情の動きを如実に表す。
無表情を取り繕っても、男には手応えをしっかりと感じたに違いない。小馬鹿にする笑みが深まった。
これでは流れを彼に取られたままだ。
惹き寄せられる心を叱りつけ、目の前の、得体の知れぬ男を睨めつける。
唇を引き結び、己に一切の言葉を禁じる。
男は、なおも笑いながら揺さぶりをかけてくる。
「お前は本来ならば存在してはならない女だった。元々《個》が無かったのが、たまたま自我が生まれただけの不安定な存在。個として在ること自体が誤りなんだ」
「……」
「おい、無表情が崩れてるぞ。気になっているのが丸分かりだ。自分の記憶には本当に弱いんだな、お前」
咄嗟に顔を逸らす。また、鼻で笑われた。
いけない。
どうしても、気になってしまう。
与えられる小出しの情報が正しいかも分からないのに、彼が本当に本来の幽谷を知っているのではないかと思ってしまう。もっと情報を求めてしまいそうになる。
駄目だと、分かっているのに。
「さあ、どうする? 俺の知っている情報は嘘偽りじゃねえ……と、言ったところで信じる信じないはお前次第なんだが」
幽谷は顔を逸らしたまま視線だけを男へ向ける。
男は双剣を持ったまま片手を伸ばした。知りたくばこの手を取れ、と言うことか。
敵とも知らぬ────いや、敵と取るべきであろう得体の知れぬ男の手を取ってはならない。
でも、その手を取れば失われた記憶を取り戻せるかもしれない。
二つの感情がせめぎ合い、幽谷は一歩後退する。
逃避を男は許さなかった。
退がれば退がる程男もこちらに近付いてくる。
男は、幽谷が己の持つ情報に惹かれていることが手に取るように分かっているのだろう。急かしもせず、無言で幽谷の挙動を待っている。
流れは完全に男のものだ。
このまま攻撃したとしても、乱れた攻撃では簡単に捻じ伏せられるのは必定だ。いつものように戦えないことは、自分がよく分かっている。
かといってこの場を離脱するにも、後ろ髪を引かれてその隙を突かれてしまうかもしれない。
……ならば、どうする?
幽谷は、男の手を見下ろした。
そうして、今になってはたと気付くのだ。
この双剣、見覚えがあるのだ。
近い過去に見たことがある細工だ。
確かな記憶を探り当てた瞬間、幽谷は弾かれたように匕首を振るった。
男は双剣でいなし、後ろへ跳躍する。
「曹操軍の、李典……!」
「思い出すのが遅過ぎる。……どうも、今日は不調らしいな。今後の為に一つ訂正しておくが、今の俺は李典ではなく、利天だ。李典は今、中で眠っている」
李典――――利天はまた双剣を回し、構えを取った。
幽谷は己の失態に舌打ちし、匕首を構えた。
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