13
魂の痛みは、心臓が軋むよりもずっと苦しく、激しい。
全身を掻き抱こうとも、肌に刃を突き立てようとも、麻痺毒を服そうとも、消えはしない。
直す方法があるとすれば、それは一つ。
この身体を邪に差し出し潔く消え去る。
そんな投げやりな方法、取る筈もない。
守るべき者を守れず、守れなかった者達に更に苦しみを与える────更に罪と懺悔を背負えと言うのか。
無理だ。
俺は、何も棄てたくなかった。
守り抜きたかったのだ。
もう二度と、あの感覚はゴメンだ。
俺は、手段を選ばない。
その方法を拒絶する為に、どんなに非道でも手を出す。
今度こそ、守ってやりたいのだ。
「────庭に出たな」
彼は苦しげに呟いた。
‡‡‡
苛々が収まらない。
冷たい夜陰に包まれた静かな川辺を歩いても、荒れ狂う心中は静まらない。
感情の向くまま殴りつけた木の幹が折れ、他の木々も巻き込んで倒れてしまう。しまった、なんて罪悪感、激情に呑まれて掻き消えた。
幽谷にとって、身も焦がす程の怒りなど、初めての感覚だった。
いや、本当は失った記憶の中で抱いたことがあったかもしれない。けれど、この感情をどう自分の中で消化すれば良いのか、分からなかった。
幽谷の心情にいち早く気付いて劉備から離してくれた関羽には申し訳なく思う。
けれど、だからと言って今のこの精神状態では、素直に謝罪の言葉はかけられそうになかった。
尚香は、とても大切な人。記憶の無い、全てに確信を持てない自分を優しく導いてくれる人。年下であるけれど、姉か母はこういう女性なのだろうと、そう思う。それも、不確かだけれど、彼女をそれに似た存在だと思うと、とても心地良かった。
そんな人を物のように、彼女の思いすら芥(ごみ)のようにぞんざいに扱われて、赦せよう筈がない。
腹の中にたぎる憤怒を持て余した幽谷はふと、足を止めた。
微風が笛のように鳴き、幽谷の身体を撫でていく。
風の音も、風にゆらゆらと揺らめく水面に浮かぶ月も、彼女の心を鎮められはしない。
穏やかな静寂の中、幽谷の心だけが荒(すさ)び狂う。
きっと今尚香のもとに戻っても劉備の言を思い出して怒りは更に燃え上がるだろう。
暫く、ここで頭を冷やそう。
冷やせるだろうか。
分からない。
でも冷やさなければ。冷静にならなければ。
自分は、人格形成の基になる記憶が無いだけで、子供という訳ではない。これは、狐狸一族の長甘寧が決めたこと。狐狸一族として、長の意にはそれに従わなければならない。
私情を挟んで迷惑はかけられないのだ。
自身に言い聞かせるも、抑えつけられることを嫌うこの感情は我が儘だ。
川に沈んで眠ってみようか、本気で考えた。
その時だ。
「幽谷」
冷静になる為の静寂に、邪魔が入る。
幽谷は《そのまま》邪魔者を振り返った。
彼女の視線を受けた邪魔者は一瞬息を呑んだ。動きも止まる。言葉が出なくなる。
暫く様子を見、何の言動も無いらしいと判断した幽谷は歩き出した。
しかしややあって、
「ちょっと待てって!」
肩を掴まれ引き留められる。慌てていたようで、少しだけ痛かった。
周瑜が前に回り込んで顔を覗き込む。焦りの滲んだ顔が迫る。
邪魔だと嫌悪を抱いた。肩を掴む手を払い退ける。今度は手首を掴まれた。
「放して下さい」
「関羽が泣きそうな顔でアンタを捜していた。何があった?」
鳥肌が立つ。嫌悪の所為だ。
「幽谷」
返答を急かされる。
だが幽谷は片手を薙いだ。
一瞬の閃き、周瑜は青ざめてその場を飛び退いた。
幽谷の手には、匕首が握られている。
純粋な敵意を露わにした攻撃に、周瑜が鼻白む。
こんな幽谷を見るのは初めてだろう。
けれどそれは私も同じ。
酷く気分が攻撃的に昂揚している。きっと怒りの所為だ。怒りが、破壊衝動を引き起こしているのだろう。きっと、そう。
「お、おいおい! 幽谷、正気か」
「……」
幽谷は匕首を手にしたまま周瑜に背を向けた。無言で歩き出す。
待て、と制止の声はすかさず飛ヒョウを投げつけて拒絶した。
一人になりたかった。
だのに、周瑜はなおも幽谷を制止する。どうあっても止まらないと諦めると、何故か隣に並ぶ。
「一人にして下さいませんか」
「関羽を悲しい顔をさせたままにしてはおけないだろ」
「ならば関羽殿に声をかけて差し上げればよろしいでしょう」
「……」
周瑜は、つかの間沈黙した。
「おい、本当にどうしたんだ。あんた、昼は関羽を助けてやってたじゃないか」
「そういえばそうでしたね。ならば好機なのでは?」
「幽谷……?」
怪訝そうな声に、幽谷は舌を打った。
足を止めて、周瑜を睨め上げる。
「一人にして下さいませんか」
強く言ってまた歩き出す。
周瑜はついては来なかった。
それで良い。
今は、誰も私の側にいなくて良い。
今、側に誰かいたら、きっとこの刃を向けるだろう。
攻撃的な己を止める術を、自分は知らない。むしろ教えて欲しい。
どうすれば、楽になれるだろう────。
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