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 下では、尚香と劉備が話をしている。
 封統は目を細めた。舌打ちしたいが札を銜えている為に口を開くことすら出来ない。

 尚香の護衛と劉備の監視、同時に行う封統は今、広い庭の樹上に座っている。
 彼女に気付く者はいない。札で隠形しているのだ、封統の術が誰かに看破されることなど有り得ない。

 尚香は健気だ。純粋で、直向きで────ねじ曲がった自分とはまるで逆の生娘だ。
 そんな穢(けが)れ無い真っ直ぐな性格だから、封統に対しても幽谷や狐狸一族に対しても心からの信頼を寄せられる。
 尚香や孫権を気に入っている訳ではないが、尚香が劉備に汚されるのは、気に食わない。

 飛ヒョウを片手に、二人の様子を注視した。


「……あ、あの! ひとつお願いしてもいいでしょうか?」


 尚香が意を決したように劉備を見上げて声を張り上げる。少しだけ、恥じらいがあった。
 何で、こんな化け物を異性として見るのか……純粋故か、無知故か、どちらかか。
 呆れから吐息が漏れる。


「どうしたの?」

「手を……握ってもよろしいでしょうか?」

「手を?」

「その……元気がない時、誰かに手を握ってもらえると安心すると、甘寧様に聞いたことがあって……劉備様の気持ちを少しでも和らげたいんです。……ダメでしょうか?」


 一瞬、劉備の邪気が空気を澱ませた。すぐに収まった。
 劉備も、元の精神のままだ。代わりはしていない。
 大方本当に手を握って欲しいのは関羽なのにとでも、ふざけたことを思っているんだろう。

 それを抑え込み、愛想笑いをする。
 自分だけが不幸とでも思っているようなその様が、封統の神経を逆撫でする。


「……ありがとう。尚香はやさしいね」


 許可を貰えたと、尚香は舞い上がる。頬を紅潮させて幸せそうな笑顔で劉備の手を握った。壊れやすい宝物のように、とても大事そうに、大事そうに。

 劉備は尚香を見下ろす。自然俯いている為表情は見えない。
 封統は飛び降り、劉備の背後に立った。それでも、彼らは気配にすら気付かない。
 彼の呟きを、しっかりと聞いた。


「でも……こうして別の誰かに触れても……僕は気持ちを変えられない……」

「? 劉備様?」

「ううん、なんでもないんだ……」


 尚香は、彼の顔から悟ったようだ。
 唇の端が一瞬痙攣し、努めて穏やかに笑って見せた。


「……ではまた今度、お茶をご一緒していただけますか?」

「うん、もちろん」


 表面上は快諾してみせ、元気が出たなどと分かりやすい嘘を吐いて、劉備は尚香の前から逃げるように立ち去った。
 挨拶を交わし頭を下げた尚香は、劉備の足音が聞こえなくなるまで顔を上げなかった。

 その状態で、ぽつりと、


「…………私が手を握っても、劉備様の悲しい顔は変わらなかった」


 やっぱり私じゃ、劉備様を支えられないのかしら。
 語尾が震える。
 しかし封統は声をかけも姿も見せず、再び樹上に戻った。

 飛ヒョウを握り直し、尚香に歩み寄る影を見定める。

 夜の闇の中でも、彼の金髪はぼんやりと浮き上がる。
 張遼────かつて呂布によって生み出された傀儡人形。呂布の死により壊れた筈だった。
 それが今はどうしてか復活し、曹操軍の将となっている奇異な状況下にある。

 改めて気配を探っても、呂布の気を感じるし、別段不審な部分はない。
 一体何処で呂布の気を取り戻したのか────。

 呂布に仕込まれた張遼は女に手荒なことはしない。
 尚香を餌にするのは少々不安があるが、もう暫く張遼の様子を眺めておこう。今後の為に。

 張遼は尚香の背後に近付き、こてんと首を傾げて見せた。


「おや、こんな所に女性がお一人でどうしたのですか?」


 尚香はぎょっと振り返り、目をしばたたかせた。誰何(すいか)すれば張遼は丁寧に自己紹介をする。呉軍には最近入ったと言う彼に、封統は目を細めた。

 間諜か。
 呂布の生きていた頃から張遼の得意としていたことだ。
 曹操に命じられて呉の内情を探りに来たのだ。

 後で接触するか。
 幽谷や関羽のことを引き合いに出せば、彼は従う。都合の悪い情報は伏せるように言っておこう。


「ところで、そんな困った顔をして一体どうされたのですか? よろしければ力になります。女性の助けになりなさいと常々いわれておりますので……」

「困った顔だなんて……ああでも、確かに今は少し悲しい気分なんです」

「悲しいとは……どういうことでしょう?」


 尚香はつかの間躊躇した。
 けれども誰かに胸の内を話したかったのだろう。眉尻を下げて俯いた。


「猫族に関羽さんという方がいらっしゃるの。あの方は素晴らしい方なんです。いつも劉備様のことを守っていて……私もあの方のように優しさと強さを持つことが出来たらいいのに……」


 彼女が羨ましいと、弱々しく願望を吐露する。
 張遼は不思議そうに問いかけた。


「うらやましい? どうして貴女が、あの方をうらやましがるのですか?」

「私と劉備様は同盟の条件として結婚することになったのですが……劉備様は彼女のことが好きなんです。聞けば幼い頃から一緒にいらっしゃると。それを聞いて、私……私……」


 言葉を詰まらせ、尚香は胸の前で両手を組む。

 張遼も困った顔で尚香の顔を覗き込んだ。

 唐突な接近にぎょっとして顔を上げ、尚香は一歩後退する。

 投げかけた飛ヒョウを、引っ込めた。


「なんでもないんです! ただ自分のことが嫌になってしまって……。自分から結婚したいと言い出したのに、劉備様のお傍にいる彼女のことを妬ましいと、うらやましいと思ってしまった。そんなことを考えてしまった自分が情けなくて恥ずかしい……」


 袖で目元を拭う尚香はなおも言葉を続けた。


「最初は呉のためという気持ちの方が強かったのに……今では本当に劉備様が好きなんです……劉備様の様子を見ていれば、彼女をお慕いしているのは分かっていました」


 それでも尚香は諦められない。
 本気で、真っ直ぐに、慕情を抱いてしまっているから。
 封統には分からない感情を大事にしている。

 張遼は……まあ、良いか。このことを曹操軍に知らせたとて大した問題は無い。
 女性に優しくあるよう良く躾(しつ)られているし、気配に以上は無いからとそのまま傍観を決め込もうかと思った封統は、しかしふと張遼の気配の変化に身を乗り出した。

 胸を押さえて前のめりになった彼から放出されるのは────呂布の気だ。

 ……。

 ……。

 ……。

 いや、違う……?
 呂布に良く似ているけれど、呂布とは違うものだ。
 封統はその場に飛び降り、札を吐き捨てた。

 大股に尚香に歩み寄り、彼女を呼ぶ。
 尚香は封統の姿を見、ずっと見られていたことも知らずにほっと微笑んだ。


「あ、封統……丁度良かったわ。張遼さんが……ああっ!」


 張遼が、倒れる。
 尚香は色を失い張遼の身体に手を当てた。

 すると、急速に呂布なのか似ている別物なのか分からない気配が収まっていく。張遼の中に再び収まったのか。

 封統は舌打ちし、張遼の身体から尚香を離した。
 そして、今度は尚香の気配に不審を抱く。


「……今の接触か」

「封統?」


 きょとんと見上げてくる尚香に、封統はまた舌打ちした。


「尚香。城に戻って、あのクソ天仙を呼んでこい。多分長の所にいるだろう」

「……恒浪牙様のことですね、分かりました。では、この方のことをよろしくお願いします」

「なるべく急げよ」


 片手を振り、封統は張遼を見下ろした。


「……今の気配が、こいつに宿って復活させたのか」


 だが呂布のようで呂布でない────その気配がどういったものなのか、封統は知らなかった。故に、気配が《移った》尚香にどんな影響が出るか分からない。
 癪だが今は天仙に看てもらう他無いだろう。
 甘寧も共にいるのなら、この気配が何なのか、分かる筈。

 張遼は、未だ眠ったままだ。



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