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「これから僕の隣にいるのは尚香になるんだ。いつでも、どんな時でも。そうまるで、昔の僕たちのようにね……」


 関羽が声を詰まらせた。幽谷には見えないが、きっと顔が歪んでいるだろう。

 だって、劉備がこんなにも嬉しそうに笑っているのだ。
 幽谷の中で、じりりと胸の内を焦げ付かせる感情が、ゆっくりと首を擡(もた)げた。理性が、押し止めようとする。
 ここで騒動を起こせば、尚香や孫呉の面子(めんつ)を潰しかねない。私は尚香様の侍女。私の愚行は尚香様の品位を貶(おとし)める────。


「あれどうしたの? なんだか君、泣きそうな顔してない? ふふ、そんなに嫌だった?」

「そ、それは……」

「そんなに嫌なら、君がちゃんと僕と一緒にいてくれなきゃ。昔からずっとそうだったんだ。僕たちは離れてる方がおかしいんだよ……ねえ、幽谷もそう思うよね?」

「……」

「そ、そんなこと出来ないわ! だって劉備はもう……」


 幽谷の後ろで、どんな仕種を見せたのか。
 劉備は一瞬だけ笑みを消し、相槌を打った。
 されどすぐに愉しげに口角を歪めるのだ。本当に、関羽の嫉妬を見て頗(すこぶ)る機嫌が良いらしい。軽い調子で謝罪した。


「そんな顔しないで。嘘だよ。ちょっと意地悪しすぎちゃったね。だって、君があまりにも愛しいんだもの。でも安心して。結婚なんてしないから」

「!」

「え……?」

「だって、当たり前だろう? 尚香と結婚して、君を悲しませるつもりなんてないよ」


 ……嗚呼。
 この人は、私も自分のことを肯定してくれるとでも思っているのだろうか。


「僕はね、君以外の誰とも結婚するつもりなんてない。僕の愛する人は、君だけなんだから」


 私は、ちゃんと言った筈だ。
 私の前で言葉にするなら────軽蔑すると。


「そ、そんなこと……今さら無理よ」

「どうして? 呉と同盟できなくなっても、そんなこと問題にならない。だって、そうだろう? 僕の力なら、曹操に負けるはずがない。曹操軍なんて、僕がすべて滅ぼしてあげるさ」


 駄目だ。
 このままでは。
 苛々が抑えられない。
 もう、言葉にするなと心の中で願う。


「だから安心して。僕は尚香と結婚なんてしないから」

「そんなこと……」


 関羽はつかの間沈黙する。
 ややあって、幽谷の背に手を置き、劉備に堅い声音で話しかけた。

 関羽は、幽谷の言葉をしっかり覚えているようだった。ほんの少しだけ、苛々が治まったような気がする。でも、それだけだ。


「……劉備」

「ふふっ、安心してくれた?」

「やっぱり、あなたは尚香様と結婚しなくちゃダメよ」

「え……」

「尚香様は、きっとあなたを心から支えてくれる。大事にしないと」

「な、なんでそんなこと言うんだよ! そ、そんなこと……それが、君の本心の筈がないっ!」


 劉備は関羽の言葉に大きく動揺する。
 関羽は縋る劉備を、突き放す。幽谷の背に手を当てたまま。


「……本心よ。いい? 尚香様を、悲しませるようなことしちゃダメよ」

「そんな……君には……僕がいらないってこと?」

「違うわ。わたしは劉備に幸せになってほしい。金眼の力に打ち勝つことが、劉備の幸せでしょう? それなら呉との同盟は必要だわ。それに尚香様なら劉備を支えてくれる。だって、幽谷がとても大事に思っている方なのよ。わたし達が思っているよりもずっと素敵な女性に決まっているわ」


 劉備は、なおも拒絶する。
 それでも関羽は穏やかな声で言い聞かせた。彼女は、猫族のこと、そして劉備のことを思って、自分を裏切る言葉を決意して放っているのだった。


「君は本当に……それを望んでいるの?」

「…………ええ、そうよ。じゃあ、わたし行くわね。幽谷も、わたしと一緒に」


 関羽は幽谷の背中を優しく押し、劉備に背を向けた。
 彼が弱々しく呼んでも、彼女は決して足を止めようとも、振り返ろうともしなかった。



‡‡‡




 関羽は自室へ幽谷を招き、劉備の言動を謝罪しようと彼女の顔を覗き込んだ。

 ぞっとした。


「あ……」


 幽谷は、こちらが凍り付いてしまいそうな程に、冷たい顔をしていた。
 劉備の所為だ。彼女がずっと耐えていたことに気付いていたのに、自分の動揺を押し隠すのを優先してしまった。
 嗚呼……彼女は、劉備も、わたしのことも、軽蔑してしまったんだわ。

 当然のことだ。
 幽谷は、尚香の侍女。尚香をとても大事に思っている。
 だから、あの時。


『……尚香様は私の主。心から呉の為を思って身を捧げると仰った主のことを、谷底だとか、絶望したとか……そのように言われるのは、私とて聞き過ごすことは出来ません。私もお察し出来る部分もありますから、思うだけなら許容可能ではありますが、もし、またそのようなことを口になさる時あらば……あなたを心から軽蔑すると思います』


 劉備の吐露を聞いて、そう言ったのだ。それでも、自分達のことを気遣ってくれている部分もちゃんとあった。
 だのに、幽谷の優しさと尚香への忠心を、劉備は尚香を蔑ろに扱うことで踏みにじったのだ。彼だって、幽谷の言葉を聞いていたのに。

 関羽は幽谷の肩に手を置き、目を合わせて謝罪した。


「ごめんなさい、幽谷。劉備が、尚香様に酷いことを、」

「……すみません」


 幽谷は、関羽の言葉を遮った。手を剥がし、扉の方へ歩く。


「あ、幽谷、」

「……少し、心を落ち着かせてきます」


 それは、静かで穏やかな声だった。関羽を傷つけぬよう、努めて出した声だったのだろう。
 けれども関羽には、彼女の声からしっかりと、関羽への拒絶が感じ取れていた。

 幽谷の背中へ手を伸ばすも、彼女は拱手もせず、足早に部屋を出ていった。力加減を間違えて閉じられた扉が、怒鳴るように大きな音を立てて閉まった。


「……なんて、こと」


 関羽はその場に立ち尽くす。

 幽谷からの冷たい拒絶が、容赦無く胸を突き刺し、凄絶な痛みを生む。

 どうしてだろう。
 幽谷に見放されたと思うと、異様なくらいに胸が苦しかった。
 思っている以上に、わたしは彼女に心を許していたのかもしれない────……。



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