10
「これから僕の隣にいるのは尚香になるんだ。いつでも、どんな時でも。そうまるで、昔の僕たちのようにね……」
関羽が声を詰まらせた。幽谷には見えないが、きっと顔が歪んでいるだろう。
だって、劉備がこんなにも嬉しそうに笑っているのだ。
幽谷の中で、じりりと胸の内を焦げ付かせる感情が、ゆっくりと首を擡(もた)げた。理性が、押し止めようとする。
ここで騒動を起こせば、尚香や孫呉の面子(めんつ)を潰しかねない。私は尚香様の侍女。私の愚行は尚香様の品位を貶(おとし)める────。
「あれどうしたの? なんだか君、泣きそうな顔してない? ふふ、そんなに嫌だった?」
「そ、それは……」
「そんなに嫌なら、君がちゃんと僕と一緒にいてくれなきゃ。昔からずっとそうだったんだ。僕たちは離れてる方がおかしいんだよ……ねえ、幽谷もそう思うよね?」
「……」
「そ、そんなこと出来ないわ! だって劉備はもう……」
幽谷の後ろで、どんな仕種を見せたのか。
劉備は一瞬だけ笑みを消し、相槌を打った。
されどすぐに愉しげに口角を歪めるのだ。本当に、関羽の嫉妬を見て頗(すこぶ)る機嫌が良いらしい。軽い調子で謝罪した。
「そんな顔しないで。嘘だよ。ちょっと意地悪しすぎちゃったね。だって、君があまりにも愛しいんだもの。でも安心して。結婚なんてしないから」
「!」
「え……?」
「だって、当たり前だろう? 尚香と結婚して、君を悲しませるつもりなんてないよ」
……嗚呼。
この人は、私も自分のことを肯定してくれるとでも思っているのだろうか。
「僕はね、君以外の誰とも結婚するつもりなんてない。僕の愛する人は、君だけなんだから」
私は、ちゃんと言った筈だ。
私の前で言葉にするなら────軽蔑すると。
「そ、そんなこと……今さら無理よ」
「どうして? 呉と同盟できなくなっても、そんなこと問題にならない。だって、そうだろう? 僕の力なら、曹操に負けるはずがない。曹操軍なんて、僕がすべて滅ぼしてあげるさ」
駄目だ。
このままでは。
苛々が抑えられない。
もう、言葉にするなと心の中で願う。
「だから安心して。僕は尚香と結婚なんてしないから」
「そんなこと……」
関羽はつかの間沈黙する。
ややあって、幽谷の背に手を置き、劉備に堅い声音で話しかけた。
関羽は、幽谷の言葉をしっかり覚えているようだった。ほんの少しだけ、苛々が治まったような気がする。でも、それだけだ。
「……劉備」
「ふふっ、安心してくれた?」
「やっぱり、あなたは尚香様と結婚しなくちゃダメよ」
「え……」
「尚香様は、きっとあなたを心から支えてくれる。大事にしないと」
「な、なんでそんなこと言うんだよ! そ、そんなこと……それが、君の本心の筈がないっ!」
劉備は関羽の言葉に大きく動揺する。
関羽は縋る劉備を、突き放す。幽谷の背に手を当てたまま。
「……本心よ。いい? 尚香様を、悲しませるようなことしちゃダメよ」
「そんな……君には……僕がいらないってこと?」
「違うわ。わたしは劉備に幸せになってほしい。金眼の力に打ち勝つことが、劉備の幸せでしょう? それなら呉との同盟は必要だわ。それに尚香様なら劉備を支えてくれる。だって、幽谷がとても大事に思っている方なのよ。わたし達が思っているよりもずっと素敵な女性に決まっているわ」
劉備は、なおも拒絶する。
それでも関羽は穏やかな声で言い聞かせた。彼女は、猫族のこと、そして劉備のことを思って、自分を裏切る言葉を決意して放っているのだった。
「君は本当に……それを望んでいるの?」
「…………ええ、そうよ。じゃあ、わたし行くわね。幽谷も、わたしと一緒に」
関羽は幽谷の背中を優しく押し、劉備に背を向けた。
彼が弱々しく呼んでも、彼女は決して足を止めようとも、振り返ろうともしなかった。
‡‡‡
関羽は自室へ幽谷を招き、劉備の言動を謝罪しようと彼女の顔を覗き込んだ。
ぞっとした。
「あ……」
幽谷は、こちらが凍り付いてしまいそうな程に、冷たい顔をしていた。
劉備の所為だ。彼女がずっと耐えていたことに気付いていたのに、自分の動揺を押し隠すのを優先してしまった。
嗚呼……彼女は、劉備も、わたしのことも、軽蔑してしまったんだわ。
当然のことだ。
幽谷は、尚香の侍女。尚香をとても大事に思っている。
だから、あの時。
『……尚香様は私の主。心から呉の為を思って身を捧げると仰った主のことを、谷底だとか、絶望したとか……そのように言われるのは、私とて聞き過ごすことは出来ません。私もお察し出来る部分もありますから、思うだけなら許容可能ではありますが、もし、またそのようなことを口になさる時あらば……あなたを心から軽蔑すると思います』
劉備の吐露を聞いて、そう言ったのだ。それでも、自分達のことを気遣ってくれている部分もちゃんとあった。
だのに、幽谷の優しさと尚香への忠心を、劉備は尚香を蔑ろに扱うことで踏みにじったのだ。彼だって、幽谷の言葉を聞いていたのに。
関羽は幽谷の肩に手を置き、目を合わせて謝罪した。
「ごめんなさい、幽谷。劉備が、尚香様に酷いことを、」
「……すみません」
幽谷は、関羽の言葉を遮った。手を剥がし、扉の方へ歩く。
「あ、幽谷、」
「……少し、心を落ち着かせてきます」
それは、静かで穏やかな声だった。関羽を傷つけぬよう、努めて出した声だったのだろう。
けれども関羽には、彼女の声からしっかりと、関羽への拒絶が感じ取れていた。
幽谷の背中へ手を伸ばすも、彼女は拱手もせず、足早に部屋を出ていった。力加減を間違えて閉じられた扉が、怒鳴るように大きな音を立てて閉まった。
「……なんて、こと」
関羽はその場に立ち尽くす。
幽谷からの冷たい拒絶が、容赦無く胸を突き刺し、凄絶な痛みを生む。
どうしてだろう。
幽谷に見放されたと思うと、異様なくらいに胸が苦しかった。
思っている以上に、わたしは彼女に心を許していたのかもしれない────……。
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