劉備と並んで関羽のもとへ向かうと……なんと周瑜のしつこいこと。未だに関羽に迫っているではないか。
 烏が止めようと攻撃している筈だが────布にくるまれ手拭いで縛られ側に放置されていた。もぞもぞと蠢き布から脱出を試みている。
 関羽が、迫られながらも烏を助けようと苦心しているのが見え、幽谷は舌を打った。

 劉備に拱手し、外套の下から徐(おもむろ)に匕首を取り出す。
 俄(にわか)に殺気立った幽谷を見、劉備は細い肩に手を置いた。


「幽谷……あの、」

「劉備様。つかの間お待ち下さいませ。芥(ごみ)を始末します」


 殺意たっぷりの低い声に劉備は「……うん」と返す他無かった。彼とて関羽を助けてやりたいが、さすがに今の自分は周瑜を殺すとか、痛めつけるとか、そんなことは頭に無かった。

 幽谷は地を蹴った。瞬きのうちに周瑜の背後に迫り、匕首を振り上げる。
 周瑜の首筋めがけて降ろしたのを周瑜は即座に避けた。
 関羽が悲鳴を上げ、周瑜の前から飛び退く。烏に駆け寄って丁寧に、早急に解放する。

 首を押さえる周瑜は顔をひきつらせて幽谷に向き直った。


「幽谷! あんた今本気で殺す気だっただろ!?」

「問答無用。散れ」

「おい! 待てって────」

「待って幽谷!」


 周瑜に躍り掛かろうとしたのを後ろから劉備に押さえ込まれた。匕首を取り上げられ、宥めるように肩を叩かれた。
 幽谷に落ち着くように言い聞かせ、真摯(しんし)に烏の容態を診る関羽に歩み寄った。


「あ、劉備……!」

「良かった。烏も無事だね」


 劉備と関羽がそれぞれあからさまに安堵したのを、周瑜は面白くなさそうに見やる。幽谷に殺されかけておいてすぐに堂々と不満を露わにする辺り、ふてぶてしい。いや、いつものことか。
 幽谷がぎろりと睨めつけても気付かないフリだ。

 劉備の肩を引き、関羽から離す。


「どうした? お前には尚香がいるだろ。邪魔するなよ」

「そんなこと今は関係ない。彼女と幽谷に話があるんだ」


「……少し、いいかな?」関羽が頷いたのを視認し、彼は幽谷を振り返る。
 幽谷も、問題は無いと頷き返した。

 前を通りざま周瑜の脛を加減せず蹴りつけ、足早に関羽達に歩み寄った。


「幽谷。さっきはありがとう。でも、この子……」

「大丈夫です。後程私が手当てを致します」


 関羽の腕からそっと烏を受け取り、謝罪と共に感謝の言葉をかけた。周瑜とて、無情ではない。烏の身体に支障が無いように拘束していた筈だ。
 だが、そうまでして関羽に言い寄るとは……彼は本当に今の状況を理解しているのか。

 屈み込む周瑜につかつかと歩み寄り、


「けだもの」


 冷たく、踵を振りかぶった。



‡‡‡




 劉備に従い足早にその場を退去した幽谷は、段々と気まずそうに表情が堅くなっていく関羽の様子を横目に窺っていた。思考に耽(ふけ)っているようにも見え、表情からそれが、彼女にとって良いことではないと察せられる。
 やがて、


「劉備、もうこの辺りでいいでしょ? 話って何?」


 立ち止まって、話を振った。

 劉備は関羽を振り返り、微かに苦笑を浮かべた。


「……話っていうのは、あの場を逃れるために言っただけだよ」

「え? そうなの?」

「だって、君が困っているようだったし……それにあのままだと幽谷が本気で殺そうとするかもって思って」

「……た、確かに」


 関羽から視線を向けられた幽谷は、劉備から返してもらった匕首を外套に戻しつつ、ぼそりと言った。


「今からでも間に合いますが。長殿がお気になさる通り、あの調子では今後も関羽殿の憂いとなりましょう。その前に男として機能させぬよう、」

「それはちょっと待って、落ち着いて、幽谷。劉備と一緒に助けてくれたんだから、それで十分よ」


 本気を察した関羽が慌てて止める。
 話を幽谷から逸らそうと劉備にひきつった笑みを向けた。


「ご、ごめんね。気使わせちゃって……。どうもありがとう」

「ううん……僕が助けたかったから。気にしなくていいよ」

「ううん、でもやっぱり嬉しいわ。……劉備がわたしのこと気にかけてくれていたんだなと思って」


 関羽は微笑み、言う。そこに浮かぶ穏やかな喜びは、幽谷には姉弟としてのそれとは、違うように思えた。ちらつく悲しみも、きっとそう。
 それを、劉備も察したのだろう。言葉を詰まらせ関羽の視線から逃げるように俯き下唇を噛み締めた。
 苦しげな、震える声を絞り出す。


「…………君は残酷なことを言うんだね」

「え?」


 関羽が一歩踏み出すと、一歩後退して視線を外へと移す。


「僕は君のことばかり気にしちゃいけない。それは猫族の長だから……尚香と結婚するから……」


 「わかっているんだ」彼は眦を下げて拳を握り締めた。一度だけ幽谷を────尚香の侍女を振り返り、瞳を揺らめかせる。


「今までのように一緒にいちゃいけない。……それでも、気づけば目で追っているんだ。自分で選んだ道だけど、こんなにつらいものだとは思わなかったな……」


 こんなに近くにいるのに届かない。
 触れたくても、自分で選んだ道が邪魔をする。
 未だ、彼は葛藤の中に在る。

 長として、劉備個人としての狭間で苦しむ彼を見上げ、関羽は胸を両手を重ねて押さえた。唇を震わせ、彼女もまた劉備から視線を逸らした。

 幽谷は、沈黙して二人のやりとりを眺めている。

 関羽は唇を内側に巻き込んで噛み、決然と、しかし寂しげな顔で劉備を呼んだ。彼女もまた、葛藤の中に在る。


「……今までのように一緒にいられなくても、わたしは劉備を守るわ。だから安心して……」

「……やだ」


 嫌なんだ。
 劉備は、ぽつりと漏らした。


 刹那。


 ぞわり、と背筋を駆け抜けるモノがあった。
 幽谷は彼の変化に気付き、烏を廊下に降ろして関羽の隣に立った。


「……安心なんて、出来るわけないよ」


 一転して、狂気を孕んだ本心を吐露する劉備の様子に関羽も気付いたようだ。一歩後退する。

 その細い手を、劉備は素早く掴んだ。低い声で嗤(わら)う。


「僕は、君を離さないよ。何があろうと、絶対にね。それに本当は、君も望んでるんでしょ? 離してもらいたくないって、そう思ってるんでしょ?」


 瞬間、関羽の頬に赤みが差す。劉備の手を振り払おうとするも、無駄だった。しっかり掴んで放さない。

 幽谷が劉備と関羽の手首を掴んで強引に引き剥がすと、拗ねたような金の瞳が幽谷を無言で責めた。
 後退する関羽は掴まれた腕を握り、劉備を睨む。
 邪に染まっている。こんな、いつ人間が通るかも分からない、城の廊下で。
 周囲の気配に気を配りながら、劉備の言葉に困惑する関羽を後退させた。猫族や狐狸一族ならまだしも、呉の兵士や尚香が通るかもしれないこの場所で、下手に騒ぎは起こせない。ひとまずは彼らの会話には介入せず、劉備の動向を探ることとした。


「劉備……な、何言ってるのよ……」

「だってそうじゃないか。さっきの君はまるで尚香に嫉妬しているようだった。悲しい顔しちゃってさ……」

「そんなこと……」

「違うって言えるの? ふふ、君が嫉妬してくれるなんていい気分だね。とても嬉しいよ。いつも僕ばっかり嫉妬してたもんね。ああそうだよ、さっきだって……周瑜、やっぱり殺しちゃおうかな。そうすれば、幽谷もすっきりするだろう?」


 関羽は青ざめ悲鳴に近い声を上げた。


「やめて、劉備!」

「ふふ、冗談だよ。まぁ、ほとんど本気だけど。でもいいよ、今日は気分がいいから赦してあげる。君が嫉妬してくれるなんてさ、それだけでも尚香と結婚の約束をしたかいがあったかな」


 尚香を蔑(ないがし)ろにするような物言いである。
 幽谷の眉が、ぴくりと動く。反射的に匕首を握ろうとしたのをすんでのところで自制した。

 けども、背後の関羽は幽谷の手の動きが分かったようだ。


「劉備、そんな言い方やめて」


 劉備は止まらなかった。


「ねえ、僕が尚香と結婚したら悲しい?」


 止めろ。
 それ以上尚香様を話に持ち出すな。
 それ以上尚香様をぞんざいに扱うなと、理性が心にまとわせた鎧にヒビが入っていく。

 されど、劉備には、決して届かないのだ。



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