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劉備達の帰りを待っていた猫族には、積もる話が多かった。
こちらの情勢や、猫族の様子、その他張飛をからかっての騒ぎなど、そんな話で時間は経ち、ようやっと彼らは落ち着いた。
そして、ところで――――と、張飛達の視線が尚香に向けられる。
怪訝そうなそれに警戒の色は無く、他意は無くただ本当に彼女の存在を不思議がっている様子だった。
劉備が尚香を呼ぶ。にこやかな彼に応じるように、尚香は立ち上がり、ゆっくりと彼の隣へ歩み寄った。必死に姫君としての佇まいを取り繕い、背筋を伸ばす。
後ろに控えた幽谷が背中を一撫でしてやると、彼女はほっと力を抜いた。
劉備は尚香の様子を確認し、猫族に同盟の条件――――尚香との婚姻について自ら話した。
当然、皆驚いた。
「えええええええ!!!! りゅ、劉備様が結婚!?」
関定の大音声が広間に響く。さすがの音量に蒋欽とほぼ同時に耳を塞ぐと、関定は幽谷の様子に気付いてすぐに謝罪した。
けれどもその彼の隣の蘇双は、顎を落として劉備と尚香を見つめている。
「呉の君主の姫君と……」
「で、でも、なんで同盟結びに行って劉備の結婚が決まるんだよ!」
「呉の同盟を結ぶための条件としてな。尚香様ご自身がお申し出になり、劉備様がそれをお受けになった」
「はぁ!? それってオレら猫族のために劉備が結婚したってことじゃねーか! それでいいのかよ、劉備は!」
張飛は声を荒げた。
それに驚いたのと、責められた気分にでもなったのだろう。尚香は一瞬だけ肩を落とし、張飛が気付いた瞬間に慌てて居住まいを正して謝罪するように頭を下げた。
それを取りなすように「もう決めたことなんだ、張飛」劉備が張飛に言う。猫族の皆にも謝罪した。
「そ、そんな、劉備様が謝るようなことじゃ……。それに、普通に考えれば、めでたいことだしな」
「も、もちろんよ! 劉備様、おめでとうございます!」
口々に、猫族は暖かに劉備を祝う。だが、彼らがぎこちないのは、驚いただけではないだろう。
多分、彼らも劉備と関羽の関係を案じているのだ。何人かが、ちらちらと関羽に視線をやっていた。
それが分からない尚香ではない。張飛の時のように悟られまいとして、肩にまた一層の力が籠もってしまう。
幽谷は後ろから尚香を呼び、肩に触れた。
尚香は振り返り、苦笑する。
「ありがとう、幽谷。私は大丈夫よ。私は呉を守る為にここにいるんですもの」
「……無理はしないようにね」
砕けた口調で言うと、彼女は一瞬驚いて、目を細めて笑った。もう一度、謝辞を囁く。
と、
「俺のいない間に劉備殿が結婚とは……ずいぶんとめでたい話が持ち上がっているようだな」
扉の方から、懐かしい声が聞こえた。
一斉に視線が向かうその先には、趙雲がいる。
彼は幽谷に気付くと、ほっと安堵したように口元を綻ばせた。
関羽や劉備にも労いの言葉をかけ、歩み寄ってくる。
「無事だったのね! よかった……どうやってここまで?」
「樊城で別れた後、俺が襄陽城に向かうとすでに城は曹操軍に落とされていたんだ。封統の言う通りに。それで、その後お前たちの元に戻ろうと、ずっと行方を追っていたわけだ」
二人に笑いかけ、尚香にも恭しく拱手して幽谷の手を取る。どうしてこの話の流れでこちらに来るのか分からなくて、首を傾けた。
蒋欽がお、とにやにや笑いを浮かべて眺めてくる。尚香も口を手で覆い、されど何処か嬉しそうだ。
「猫族が江夏に向かったという噂を聞き、なんとかここまでやってきたが、またみんなと合流できてよかった。幽谷や周泰の安否も、今ここで確認できた」
趙雲は幽谷の頭を撫でた。
「樊城を出た後、大丈夫だったか。曹操軍に襲われたと聞いて、心配していたんだ。夏侯惇に会いはしなかったか?」
「……私は、特には何も。彼にも、会っておりませんから……」
「そうか、それは良かった」
頬に手を添えられた瞬間、背後から肩を掴まれて後ろに引かれる。
抱き締められる形で趙雲から無理矢理離したのは、周瑜である。憮然とした顔でごしごしと幽谷の頬をこする。
それが少しばかり痛くて、幽谷は彼の足に踵(かかと)を思い切り落としてやった。……避けられた。
「悪いな、幽谷は尚香の侍女で、呉側なんだ。必要以上にくっつかないでもらえるか?」
不機嫌そうな声での牽制する。
趙雲は一瞬目を細め、しかし肩をすくめて流して見せた。
「離れている間心配だったんだ。少しくらい大目に見てもらいたいものだが」
「あの……」
「幽谷」
ふと、尚香が幽谷を呼んだ。
両手を合わせ、周瑜と趙雲を見比べる。そして頬を赤らめとろける笑みを浮かべた。
「確かに、とても良い方ね。ちょっと不安があったけれど、本当に良かったわ」
「え……」
ああ、あの母の話か。
……今は、本当にそんな場合ではないと思うのだけれど。
反応に困っていると、周瑜の腕に力が籠もる。
取り敢えずこの男は不快なので沈黙させておこう――――そう思ってもう一度足を上げると、
「――――ぐっ!?」
周瑜の身体が大きく震え、幽谷の後ろで倒れる。
趙雲が腕を引いて周瑜から離さなければ、一緒に座り込んでいたかもしれない。……だからと言って、腰を抱かれるまではないと思うのだけれど
背後から一撃を食らわせたのは、封統だ。眉間に皺を寄せ、かつかつと音を立てて甘寧達のもとへ戻っていく。
彼らは、この状況を正しく理解しているのだろうか。
呆れに似た心境になり、幽谷は細く吐息を漏らした。
そこで、張飛が慌てて声を張り上げる。青ざめているのは――――封統が周瑜に向けて飛ヒョウを投擲(とうてき)する構えを見せているからだった。あれは本気だ。本気で苛立っている顔だ。張飛もそれを察したのだった。
「そ、そんなことより、趙雲も祝えよ! 劉備が結婚するんだぞ!」
「そうだ、こんなめでたいことはない。おめでとうございます、劉備様! 尚香様!」
関羽を気遣うものの、彼らが尚香のことを拒絶することは無い。
温かな言葉を受け、尚香は深々と頭を下げた。
「みなさん……ありがとうございます。私は、劉備様の妻として精一杯頑張ります!」
彼女は劉備にも、決意を込めて一礼する。
「……劉備様。末永く、よろしくお願いいたしますね」
「うん。ありがとう、みんな」
劉備は笑顔を浮かべた。
……だが、彼の笑みにはやはり影が差していた。
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