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今朝、食事をろくに摂っていないらしい劉備とお茶をしたいと言う尚香に従って彼を捜していると、広間から彼の声が聞こえてきた。
関羽の声も聞こえる。
尚香が傷ついたような顔をして、しかし開けっ放しの扉から中に入った。
「あの、劉備様、少しお時間を……あっ、すみませんっ! お話し中に!」
尚香が驚いた声を上げる。
不審に思って中を覗き込むと、関羽が劉備と近い場所に立っている。はっとして距離を取ったけれど、お互い悲しそうに見合う。
「ああ、尚香様。何か御用でしょうか?」
「その、先日の同盟のことで……余計なことをしてしまったのではと思い、お詫びしようと探していたんです」
一瞬、劉備の表情が歪む。本心が覗いた彼に思わず身構えるが、彼はすぐに微笑んで首を横に振った。
「……いえ、そんなことはなです。尚香様のおかげで無事、同盟を結ぶことができました」
「でも、急に出てきて結婚の話にまで発展してしまって……ご迷惑ではなかったでしょうか? 呉の将来を考えてのこととはいえ、劉備様には……その……」
言葉の途中で視線をやるのは、気まずそうな関羽だ。悲しげな、置いてけぼりにされた子供みたいな、泣きそうな顔をして、劉備と尚香のやりとりを眺めている。
はたから見れば恋人を奪われた乙女だ。けれど、幽谷の知る限り彼女は今でも劉備のことを守るべき手の掛かる小さな子供だと思っている。甘寧も、この部分を問題視しているのだろう。
尚香すら二人の関係にある感情を察しているというのに、関羽自身自覚が無いのなら、これからもこの同盟の障害となりそうだ。……と言いつつも、幽谷自身に止められるような術は無いのだけれど。色恋沙汰を経験したことが無いから。
とにかく今は、尚香が傷つかないか見守るだけだ。恒浪牙の言う通り劉備の監視を任されるかと思ったけれど、母からはそんな指示が来ない。恒浪牙や蒋欽が城を彷徨(うろつ)いているから必要無いと判断したのだろうか。
扉の桟に寄り添って立ち、尚香と、猫族の二人を傍観した。
「確かに初めは驚きましたが、この結婚は呉や猫族のためになる。それなら、喜んでご一緒いたしましょう」
関羽がひゅっと息を吸って胸を押さえた。
劉備は彼女を見――――気付かないフリをした。
「尚香様こそ、呉のためとはいえあんなご提案をされたこと、……後悔はされていないのですか?」
尚香は首と両手を左右に振って、頬を赤らめた。
「後悔だなんて、そんなことないです! あの……わたしは……劉備のこと、お慕いしていますから。柴桑城でお見かけした時は驚きました。猫族の方が来るだろうと幽谷から聞いておりましたが、劉備様だったとは思わなくて……こんな形で劉備様と一緒になるなんて思っていませんでしたけど……これから、よろしくお願いいたします」
屈託無く笑う尚香に、劉備も努めて微笑み返した。
けれど、微かにぎこちない。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
関羽が身動ぎする。
一歩離れ、また一歩離れる。
「劉備、わたしもう行くわね。劉備は尚香様とゆっくしりしてて。わたしが諸葛亮の所へ行って、劉備と後で話せないかって伝えてくるから」
「え? あ……!」
関羽は弱々しく笑いかけ、小走りに広間を飛び出した。
手を伸ばしたのは劉備ではなく、尚香だ。申し訳なさそうに口を閉じ、眦を下げた。
「行ってしまわれましたね……すみません……わたし……」
「いえ、尚香様のせいではありません。気にしないでください」
でも、劉備様はあの方のことを……。
ぼそり、呟く。
言葉を完全に拾えなかった劉備が聞き返すと、慌てて何でもないとかぶりを振った。それから誤魔化すように両手を叩き、取り繕って笑う。
「そうだ! お茶をご一緒にいかがですか? 先ほど珍しい茶葉を頂いたので」
「……わかりました。行きましょう」
「はいっ! ありがとうございます!」
二人きり、か。
幽谷は尚香に歩み寄り、共に行こうとして外套を引っ張られた。小声で呼ばれ、屈んで耳を寄せた。
尚香は劉備の様子を気にしつつ、
「あの方手伝ってあげて。少しでも良いから、側にいてあげて欲しいの。わたしの所為で、辛い気持ちにさせてしまっているから……」
関羽の座を奪ってしまったことに強い罪悪感を抱く彼女は、幽谷を見上げて懇願する。
幽谷に何が出来るかよりも、ただ関羽の側にいて欲しいのだろう。だが、きっとこの頼みごとにも強い罪悪感を感じている筈だ。
幽谷は封統の言葉を思い出し一瞬だけ渋面を作るも、尚香に重ねて頼み込まれて断れなかった。
「長殿。私は別の用事がございます故、これにて失礼致します。尚香様のこと、よろしくお願い致します」
「……うん。分かった」
劉備は尚香を見、目を伏せ頷いた。
幽谷は双方に拱手し、足早に関羽の後を追った。
関羽は、思いの外早くに見つかった。
周囲を見渡す素振りを見せているが、何処か心ここに在らずだ。
幽谷は少し大きめに足音を立てて近付いた。が、それでも気付かない。
「……」
「関羽殿」
「……劉備の傍にいられないことが、こんなに寂しいなんて……」
「関羽殿」
「劉備……」
「関羽殿!」
「きゃっ! ……え、あ、幽谷……」
関羽は両手を軽く挙げて前に数歩飛び出し、振り返る。独り言を聞かれたからか顔をほんのりと赤く染めて、瞬きを繰り返した。
「い、いつからそこに……?」
「『劉備の傍にいられないことが、』の少し前からお呼びしていたのですが、全く気付かれてないようでした」
「……ごめんなさい。考え事に没頭していたみたい」
関羽は胸を撫で下ろし、深呼吸をして姿勢を正した。
「どうしたの? わたしに何か用?」
「諸葛亮殿をお探しのようでしたので。私もお手伝い出来るかと。まだ、城内ではご不明な点がおありでしょう」
「そ、そう。ありがとう。助かるわ」
関羽はほっとした顔で、笑った。
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