李典は深夜のことなど忘れ、何食わぬ顔で軍議に出た。夏侯惇と夏侯淵に挟まれ、曹操の動向を窺う。

 現在新たな拠点となった襄陽城は、かつては劉表の居城であった。
 彼らが曹操軍によって惨劇に見舞われたのはそれ程遠くない過去である。しかし、この城にすでにその面影は一切無い。
 劉表の冷たい骸が倒れていたこの広間も血の付いた床板を全て張り替えられ、装飾もことごとく変えられててしまった。元々から曹操の居城であったかのように、彼に自然と馴染んでいた。

 そんな面倒臭い作業を、曹操が十三支を追っている間に使用人や徐州兵にさせたのは賈栩だ。そうすることで、徐州が曹操の手に落ちたのだと改めて知らしめたのだ。勿論、その中で反抗した者は仲間の目の前で曹操軍の兵に首を斬られた。これについても、汚れた床板を張り替えさせていた。
 徹底的に追い詰め、反意を挫いたのだ。

 すっかり様相の変わった広間の奥で、曹操は静かに言を発した。


「十三支共の動きはどうなっている?」


 夏侯惇が一歩前に出、拱手する。


「はい、現在は江夏に留まっており、特に目立った動きは見られないようです」

「とはいえ……我々は呉との同盟がどうなるか次第。しばらくは様子見といったところですかな。何度も痛手を受けた手前、すぐにまた攻めるのもねぇ」

「そう易々と逃すつもりではない。十三支共はこの手で必ず倒す!」

「そうは言っても我々の目的は南征が第一。呉との同盟が決まれば、それも楽になる。いくら劉備が強いと言っても、一人で十三支たち全員を守れるわけがない。呉との同盟を先に進めるのが得策だろう」


 言い合う夏侯惇と賈栩を眺めていた曹操は、不意に李典に目を向ける。


「我が軍の戦力を鑑みれば、呉が同盟を断るとは考えにくい。が……李典。あの甘寧という狐狸一族の長、」


 曹操は頷きかけた。曹操の後に残った李典に、見解を話すようにとの無言の促しだった。
 李典はすぐにそれに応える。内なる利天の言葉を聞きながら、口を開く。


「ええ。やはり彼女は十三支寄りですね。張遼殿が仰っていたように、十三支の祖先と親しい友人関係にあったそうで。更に人間の姿はかつて徐州でも名高い『鈴の甘寧』にも一致します。ま、違うと言えば鈴がありませんでしたけど」

「『鈴の甘寧』……となれば、呉の中枢にも入り込んでいるか」

「恐らくは。堂々と正体を現したことを考えると、狐狸一族の長として呉に身を置いている可能性も捨て切れませんね。呉が、彼女の意に添うような選択をしないとも限りません。……正直、狐狸一族と呉が敵に回ると、十三支どころではなくなると思います」


 曹操は目を伏せた。
 思案に耽り、腕を組む。ほう、と息を吐いた。


「……呉の孫権という男も、君主に就いてまだ間もないという……どういった人物か読めぬ以上、狐狸一族のことも含め、色々調べておく必要はあるだろうな。今は、万全を期そう」


 張遼を呼び寄せ、曹操は彼に間者の任を言い渡した。
 この張遼、呂布の下にいた時は間者の役も担っていたという。
 料理裁縫掃除も女以上にこなせるし、間者も出来るし、馬鹿強いし、痛覚があるのかも怪しい。
 力量は認めてやるが、李典は決して彼を信用してはいなかった。

 それが、顔に出ていたんだろう、曹操がこちらに視線を向けてきた。


「李典」

「……申し訳ありません」


 使える者は誰でも使う。
 それが、曹操の意向だ。
 分かってはいるが、あの呂布の部下だというのが、色んな意味で落ち着かない。
 それに彼の近くにいると、どうも胸の中がざわざわするのだ。まるで、共鳴か何かのように。利天にもあまり彼に近付かないように言われている。
 苦々しい表情が崩れない李典の前で張遼は二つ返事で了承し、優雅な所作で広間を発った。

 それを見送り、曹操は腕を解いた。


「さて、劉備の所には諸葛亮がいる。恐らくは、引き続き狐狸一族もついていよう。呉の動向によっては、三勢力を相手にすることにもなる。油断は出来ぬか……」


 現在、曹操軍は圧倒的に不利な立場に近い。
 ……されど、狐狸一族などを畏(おそ)れて逃すつもりは毛頭無かった。……いや、邪魔になるなら何もかもを排他するまでだ。どんな手を使ってでも。

 夏侯惇を見やり、厳しい声を発した。


「兵の準備を怠るな。近いうちに十三支ともども劉備を討つ」

「はっ! 李典、夏侯淵」


 夏侯惇は軍の編成へと足早に向かう。
 軍議はこれで一段落ついたようで、皆が己の仕事へ戻ろうと散開する。

 李典も、夏侯淵に肩を強く叩かれ睨みつけながらも、彼に従う。

――――が、年上を優先して道を譲っていると、後ろから曹操の物騒な言葉が聞こえた。


「劉備よ……あの娘、今しばらく貴様に預けておこう……だが必ずや貴様を血祭りにあげ、この手で奪い去ってみせる……! 狐狸一族に身を置く混血の娘も、私のものだ。神など、私にはどうでも良い……」

「曹操様? 今、混血とか言いました?」

「……いや、何でもない」

「そうですか」


 いや、ばっちり聞こえたけれど。
 李典は拱手し、曹操と自分以外誰もがいなくなった広間から足早に外に出た。

 両開きの扉を閉めると同時に、利天が言葉を発する。


『あいつ混血だろ』


 周囲を確認しながら、李典は言葉を返した。


「え、混血?」

『あいつ、人間の耳殻を持っちゃいねえし、横よりも上からの音の方がよく聞こえてるようだぜ? 気付かなかったか』

「全っ然。ってことは、耳、斬り落としてる?」

『見えないからな。耳が』


 実際に想像して思わず頭を撫でる。


「だから、あんなに関羽に固執し始めたのか……」

『曹操軍は、女に狂わされやすいのかねぇ』

「さあ、どうだろう。……と、夏侯惇殿達がいるから、これで」

『ああ。夏侯惇に必ず簪は持たせておけよ』

「分かってる。――――夏侯惇殿! 夏侯淵殿!」


 李典は駆け出し、待ってくれていた二人に駆け寄った。
 遅いと夏侯淵に殴られた――――。



.

- 113 -


[*前] | [次#]

ページ:113/220

しおり