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声が聞こえる。
誰かが自分を呼んでいる。
誰かが自分に笑いかけている。
ここは――――懐かしい故郷だ。
山がある。
森がある。
川がある。
湖がある。
嗚呼、なんて美しい世界だろう。
この世界を生み出したのは自分。
けれども何よりも美しく仕上げたのは《仲間》だ。
溌剌(はつらつ)としていて寂しがり屋な甘え上手の可愛い妹、頭が良いのに愚かしい程に真っ直ぐな誠実な頼れる弟。
自分達姉弟を支えてくれる愛おしい同胞。
自分を慕ってくれる気心の知れた友人達。
満たされていた。
とても、とても、幸せだった。
これ以上の幸せは無かった。
皆がみんな、辛いことも楽しいことも喜ばしいことも共有して、世界そのものが自分の家族。大事な大事な宝物だった。
でも、それは壊れた。
壊したのは、あの子。
可愛くて可愛くて仕方がなかったあの子。
あの子の所為で皆みんな世界に閉じ込められ、消えてしまった。
大事な家族。命よりも大事に守ってきた家族。
それを、あの子は奪った。
全てを壊した。
そして、のうのうと生きている。
おお、何と恨めしいことよ。
おお、何と面の皮の厚いことよ。
憎らしい。
憎らしい。
憎らしい。
苦しめても足らぬ。
殺しても足らぬ。
裏切った罪は必ずや贖(あがな)ってもらうぞ。
私の、大切な――――《 》よ。
‡‡‡
――――また、あの夢。
李典は気怠い身体を起こし、重い嘆息を漏らした。
外は未だ夜が明けておらず、闇に慣れた視界もうっすらと部屋の調度品の輪郭が浮き上がっているのみで、真っ暗だ。
李典は前髪を掻き上げ舌打ちした。
最近やたらとこの夢を見る。
《彼女》の憎悪にまみれた幸せの記憶だ。
曹操に仕える前は年に一回あるか無いかであったのに、今ではほとんど――――三日に一度は見ている。
これは自分にもうほとんど猶予が残されていない、その証だった。
深呼吸を二度繰り返したところで、突如右腕の感触が失せる。
これも、最近になって現れ始めた症状だった。感触も何も無い右腕は、勝手に動き、寝台の側に立てかけた双剣に伸びる。
それを枕の下に忍ばせた短刀で、甲を貫いた。
半瞬遅れて痛みと熱が生じ、そこから肩口へと感覚が戻ってくる。
激痛は取り返せた何よりの証左(しょうさ)だ。
だが――――。
その証左は、瞬きを三回すれば消えて無くなる。最初から貫かれてなどいないかのように、男にしては滑らかな肌に痕も残っていなかった。
……早くなっている。
元々傷や病気の治りは早い方だった。だが夢と同じくここ最近急激に早くなっている。
段々と、人ではなくなっているのだ。
李典は呻き、片手で顔を覆った。
ふざけるな――――当て所の無い怒りが、胸中でどろどろと溶岩のように巡っている。噴火させたい激情は、しかし誰にもぶつけることが出来ない。誰にも理解し得ないものだと分かっているからだ。
誰も、俺の身体のことを信じてはくれない。
利天と共に、誰にも悟られずに抗う他無いのだ。
最後の砦、幽谷という器を求めて。
「……誰が、……かよ……っ」
誰が――――誰が、良しとするものか。
俺は、俺で、利天は利天なのだ。
俺は認めない。決して認めない。認めてなるものか。
俺は李家の李典。先祖の弟利天に育てられた、李典なのだ。
俺が《個》でないなどと、認めない。
《彼女》の器となる為に利天と共に生まれてきたのだと、絶対に認めない。
「……絶対に、渡すものかよ」
この身体は俺と利天のもの。
お前なんぞに――――汚れた狐なんぞに渡すものか。
李典は胸に拳を置き、奥歯を噛み締めた。寝台を降りる。
体内を焦がす激情を冷まそうと部屋を出ると、ふと風が吹いた。乱暴なそれは李典の髪と寝衣を乱し、廊下の先へと突き進む。
その先に――――女がいた。
鼻を鳴らす。つまらぬ幻覚だ。それもまた、慣れた現象だった。
この世のものとは思えぬ美しいたおやかな女であった。煌びやかに着飾ったとて、現(うつつ)の、人の手が生み出した細工物ではその圧倒的な美貌に劣る。
最初彼女を目にした時は気圧されて総毛立ったものだ。
けれども、今ではその美の影にある醜く歪んだおどろしき憎悪と欲望を色濃く感じ、嫌悪感しか湧かない。
女はしなやかな所作で手招きする。
普通の男なら、何も考えずに誘われるまま従うだろう。
李典は違う。誘いに乗れば彼女に負けることをよくよく理解していた。だから、冷笑を向け背を向ける。
「性格ブスに身体はやらない。これは俺達の身体だ。お前の為に生まれたんじゃない」
蔑むように言い、大股に女から離れる。
背後で、舌打ちするような、軽い音が聞こえた。
『まことに……あの娘の如(ごと)、忌々しきこと』
それは、光栄。
心の中で軽佻(けいちょう)に返した。
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