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 周瑜は落ち着いてすぐに眠った。さぞ苦しかったのだろう。眠っても顔は依然歪んでいる。

 上体を起こしたままの姿勢を維持させ幽谷は部屋をこっそりと出る。
 鼠を捕まえて恒浪牙の居所を訊ねてみると、まだ甘寧と共に柴桑に滞在しているらしい。
 甘寧が側にいるのなら鼠に伝言を頼んでも通訳してくれる。彼に幽谷の部屋へ来て欲しいとの伝言を託し、私室へと戻った。

 周瑜は……寝ている。
 未だ苦しげだが、咳は出ていないようだ。
 汗ばんだ顔に張り付いた髪を退け、寝台に腰掛ける。
 これは、私は徹夜かしら。
 周瑜の病状が分からない以上、いつでも対処出来るよう幽谷が側で診ておかねばなるまい。恒浪牙に診てもらってそのまま頼むのも、何だか悪い気もする。彼も、疲れているだろうし。

 手拭いで汗を拭ってやると、不意に扉の向こうから声が掛かる。


「どなたですか」

『幽谷。いるか』

「諸葛亮殿? ……少々お待ち下さい」


 幽谷は己の姿を見下ろした。微かだが、血が付いている。外套を脱いで、尚香から贈られた前まで隠せる外套を羽織ってから外に出た。

 諸葛亮は「時間はあるか」と問いかけてきた。


「構いませんが……あまり長く出歩くことは」

「構わん。ただ、少し話がしたいだけだ」

「分かりました」


 諸葛亮が、ただ話したいだけで幽谷のもとを訊ねるとは、少々意外だ。
 幽谷は尚香の訪問に備えて書き置きを残しておきたいと嘘をつき、中を見られることの無いよう気を付けながら部屋に戻った。尚香ではなく恒浪牙に書き置きを残して諸葛亮のもとへ。

 歩き出した彼の後ろに続くと彼は歩みを弛めて幽谷の隣に並んだ。


「呉が曹操に下ると決めた場合、狐狸一族はどうする」

「恐らくは孫家の方々を連れて狐狸一族の里に戻るでしょう。以降、呉に力を貸さぬかと」


 甘寧が気に入ったのはあくまで孫策、そして孫家。
 狐狸一族が手を貸すのは孫家にのみ。周泰や蒋欽が守るのも孫家、そして周瑜や黄蓋のみ。それがたまたま呉の繁栄に繋がっているだけのことだ。
 孫家のいない呉の盛衰に、甘寧は全く興味が無い。
 きっと、孫家に縁のあった四霊もそうだろう。稀に様子を見に来るらしいが、甘寧のように堂々とではなく、人に紛れて観察するだけで、幽谷も会ったことが無い。

 猫族に関しても、劉備と関羽次第ではもう手を貸さないだろう。
 そう言うと、諸葛亮は涼しい顔で「そうだろうな」と。


「甘寧様が、劉備様に厳しくしておられるのは私としても有り難い。……が、今のままでは見放されかねんな」


 こめかみを押さえ、諸葛亮は吐息を漏らす。
 彼は非常に頭が回る。その中には、幽谷の想像を超えた叡智(えいち)が詰まっているのだ。
 劉備を苦しませると分かっていながら非情な選択肢を迫るのも、猫族の長たる劉備を支えようとしているが為。

 彼にとって、今の劉備を見ているのはとてももどかしいだろう。


「劉備様は、関羽に傾倒しすぎている。金眼の力に囚われた状態では、それも顕著だ。尚香様に対して無礼を働くこともあるだろう」

「その時は、あなたに免じて許せと?」


 諸葛亮は、否、と答えた。


「お前には尚香様の侍女として行動して欲しい。気遣いは無用。毅然と責めてくれて構わない」

「……分かりました。話とは、これですか?」

「いや、そういう訳ではない」


 そこで、何故か沈黙する。苛立たしげに、気まずそうに、視線を逸らす。


「甘寧様に、無理矢理に出向かされた」


 ……。


「それ、は……あの……申し訳ありません。母上の無礼、心よりお詫び申し上げます」


 甘寧の被害者だった。諸葛亮のことだ、断れば面倒になることを予想して、逆らわなかったのだろう。賢明な判断だと幽谷でも思う。実際、拗ねた母は蒋欽すら手を焼く。
 幽谷は深々と頭を下げた。

 溜息の後、顔を上げるように言われる。


「少しで良い。その辺を共に彷徨(うろつ)いていれば甘寧様に申し訳も立つ」

「分かりました。長くはおれませんが、暫くは共に」

「……感謝する」

「いえ、元は母上の我が儘ですから。こちらこそ、お疲れの御身にご無礼を」


 首を左右に振れば、諸葛亮は疲労の中、うっすらと苦笑した。

 少し離れた場所から感じられる気配のことは、話さない方が良いだろう。
 幽谷も苦笑いを浮かべた。



‡‡‡




「お、歩き出した歩き出した」


 屋根の上から、甘寧は楽しげな声を上げた。
 隣には孫権が座っている。無表情に、甘寧の我が儘な道楽に付き合っていた。

 孫権の背後には周泰。少しばかり呆れた様子で母親を見下ろしていた。


「……母上」

「やだ。オレは早く孫が見たい。封統じゃ無理っぽいもん」


 溜息を禁じ得ない。
 周泰は諸葛亮と並んで歩く幽谷を見つめ、ふと身を翻した。


「周泰?」

「少し席を外します」

「いんや、孫権はオレが部屋まで送り届ける。さっき婿が行ったから、お前も行っとけ。心配なんだろ」


 孫権が問いたげに周泰を見やるが、周泰は拱手して足早に屋根から飛び降りた。
 諸葛亮達に見つからぬように闇に溶け込み、幽谷の私室へ向かう。

 主のいない部屋に声もかけずに入り、寝台に歩み寄る。
 先程からずっと感じていた濃厚な血の臭い。それは間違い無く寝台で上体を起こされた姿勢で眠る周瑜のものだ。

 周泰は周瑜の胸に手を翳した。
 ややあって、ほわりとした暖かな光が生じ、幾つもの柔らかそうな球体となり胸に染み込んでいく。

 その光の球体が一つ、また一つと胸へ染み込むうちに、周瑜の顔色も良くなっていく。
 けども、周泰は眉間に皺を寄せた。
 手を離し、長々と溜息を漏らす。


「悪い。俺には進行を阻む程度しか出来ん」


 先程よりは穏やかに眠る友人の顔を見、周泰は拳を握り締めた。



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