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 孫権は非常に真面目な性格で、頭が大層堅かった。
 冗談も真に受けてしまう程だったから、彼も彼なりに幽谷の為を思ったのだろう。
 けれども、幽谷にとっては有り難くても迷惑な話だった。

 来るかも分からぬ周瑜や甘寧を警戒しながら孫権を諭し、取り敢えずこの話は保留ということにしてもらった。だが、運悪く途中で蒋欽と周瑜が入ってきて、少々面倒な問答をしてしまったのだけれど。

 周瑜は、蒋欽が甘寧からの伝言を伝えに来たそのついでに孫権の意思を確認するつもりだったらしい。要らぬ問答の後言葉少なに孫権と意見を交わし、すぐに幽谷を尚香の部屋へ送ると出てしまった。
 半ば無理矢理に連れ出された形ではあったが、幽谷はどうせすぐにでも尚香のもとに戻るつもりだったからと周瑜の隣を歩く。


「幽谷。アンタ本当にどちらかと夫婦になるつもりか?」

「今はそれどころではないでしょう。ですが、母上のご指示ならば従います」

「それで良いのか? それじゃあ、尚香と同じだろ」

「……しかし、そうなれば私も尚香様のお側でお守りすることが出来ます。猫族のもとにいれば安全かもしれませぬが、それでも私の手でお守りしたいので」


 「ふうん」周瑜は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 好色の彼のことだ、どうせすぐにどうでも良くなる。
 周瑜を一瞥し、幽谷はふと、この近くに関羽達にあてがわれた部屋があることを思い出した。

 関羽だけにも尚香の決意の程伝えておこうと、周瑜を角で待たせて部屋へと向かう。
 猫族にとって――――いや、劉備と関羽にとっては迷惑な条件だっただろう。されど、それは別として尚香の呉を思う気持ちだけは知っておいて欲しかった。孫家は誰よりも呉を守りたいと強い思いを秘めていると。その上でこの同盟について考えて欲しかった。

――――が、近付くにつれはっきりと聞こえてきた会話に足を止める。

 中には劉備もいるようだ。
 幽谷はその会話に、ひゅっと息を呑んだ。


『やっと……やっとなんだ。ようやく君に見合うよう成長できたのに……。君と一緒に頑張ろうって、そう誓ったのに。何度も諦めて、それでも足掻いて……。やっぱり諦めきれないと、幸せを掴むと、そう決心したばかりなのに』


 泣きそうな声だ。
 幽谷は立ち去ろうかと一歩引いた。

 されども。


『いつもそうなんだ……。希望の光が見えた途端、谷底に突き落とされる。もう、絶望するのにも飽きた……』

『劉備……そんな悲しい顔しないで』

「谷、底……絶望……」


 それは、尚香様のことを言っているのだろうか。
 確かに彼にとっては望まぬ婚姻を条件に出されたから、嫌になるのも察する。関羽に依存する劉備を見ているから、仕方がないとも思う。
 だけど……こんな言い方って、ある?

 幽谷は口を開いた。


「幽谷です。関羽殿、少しよろしいでしょうか」

『え? 幽谷? あっ……ちょっと待って、今、』

「いえ、その必要はございません。このままで構いませぬ故に。申し訳ございませんが、先程の長殿との会話が聞こえてしまいまして、それについて少々」


 幽谷は関羽の応(いら)えを待たず、言葉を続けた。


「あなた方にとって望まぬ条件を出され、困惑なさっておられるお気持ちは察します。長殿が大切な関羽殿との未来を渇望されるのも、否定はしません。ですが……尚香様は私の主。心から呉の為を思って身を捧げると仰った主のことを、谷底だとか、絶望したとか……そのように言われるのは、私とて聞き過ごすことは出来ません。私もお察し出来る部分もありますから、思うだけなら許容可能ではありますが、もし、またそのようなことを口になさる時あらば……あなたを心から軽蔑すると思います」


 幽谷は最後に謝罪を添えて、扉の向こうの二人に拱手した。
 感情で動いてしまった罪悪感が胸を重たくしたが、それでも言ってしまったことは取り消せない。

 恒浪牙は、一度彼の足掻きを肯定した。人として当然のことだと。
 だけど彼が肯定したのは、こんなことではない。そう思う。
 彼も賊とは言え大勢の人間を束ね守っていた人間であったと聞く。そんな彼が、愛する女の為だけに選択する自己中心的な長を認める筈がない。

 ……彼は、何を守りたくてここにいるのだろうか。
 そんな疑問が頭をよぎる。
 けれども劉備は賢しい男だ。関羽に感情を吐露してはいたけれど、頭の片隅では自分の役目も、尚香の思いだってちゃんと分かっている。関羽との幸せを望むのも本心、されど猫族のことだって大事に思っているのには変わり無いだろう。……そう、思っておきたい。

 尚香様には、死ぬまで悲しんで欲しくなかった。
 大切な恩人で、ここに来て初めての友人なのだ。
 もし邪に染まった善意無き劉備が己の願望のまま尚香を害そうとした時は、


 私が命を賭してお守りせねば。


 そう胸に決めて幽谷は周瑜のもとへ戻った。

 が、彼を待たせた場所に彼の姿は無い。


「周瑜殿?」


 ぐるりと周囲を見渡し、首を傾ける。
 誰かに呼ばれて――――いや、それなら女官か誰かを捕まえて代わりに待たせる。周瑜ならそうするだろう。
 幽谷は周瑜を呼びながら付近を捜して回った。

 と、灯台も無い奥まった場所に、うずくまる影。
 札に火を灯して影を照らすと、激しく咳き込んでいる。
 一瞬上がった頭部には、垂れた猫の耳が生えていた。


「周瑜殿っ?」


 慌てて駆け寄り、背中を撫でる。


「……っ幽谷、」

「大丈夫……そうではありませんね。お待ち下さい。今典医を、」

「……要らない」

「ですが、」

「良いから!」


 声を荒げまた咳き込む。
 幽谷は周瑜の顔を覗き込み唇を引き結んだ。


「ならば、私の部屋へ。ここからならあなたの部屋よりも近いです」

「だから……っ」

「曹操との戦いの前に面倒を起こさないで下さい。尚香様のお覚悟を棒に振るおつもりですか」


 周瑜の腕を肩に回し、背中を押さえつつ立ち上がる。
 自分よりも大柄な男を支えながら歩くのは、力があっても難しい。
 人目を避けて何とか幽谷の私室に連れ込み、寝台に寝かせる。そこで、口から血がこぼれていたことに気が付いてぎょっとした。
 幸い、血の量は少ないようだ。
 幽谷は裁縫箱を空にして周瑜の上体を起こし、幽谷に凭れ掛からせて顎の下に裁縫箱を添えた。


「我慢せず、出てきた血は出して下さい。無理に我慢をすれば窒息してしまいますよ」


 周瑜の咳は激しい。
 幽谷は落ち着いて寝かせた後、恒浪牙を呼ぼうと思った。彼ならば、口止めをすればきっちり守ってくれる。
 周瑜の様子を窺いながら、幽谷は励ますように背中を撫で続けた。



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