17





「あの、尚香様……何もあのようなことを提言なさらずとも良かったのでは?」


 ひとまず猫族の謁見を終え、幽谷は尚香に従い間を出た。
 躊躇いがちに諫める幽谷を振り返り、尚香は複雑そうに眦を下げた。


「……私も、我ながら考え無しの発言だったと思っているわ」

「であれば、」

「でも引き返しは出来ません。自分の言葉には、ちゃんと責任を持ちます」


 自分に言い聞かせるように言う尚香は、一瞬足を止めて幽谷を呼んだ。


「幽谷。ごめんなさい、今からお兄様の部屋に行きたいの」

「お供致します」

「ありがとう。でも幽谷、約束を忘れてない?」

「え――――あ……」


 そう言えば。
 口を押さえて頭を下げれば、尚香は不満顔を作って上目遣いに睨んでくる。


「二人きりの時は?」

「敬語を無くす……でした」

「幽谷」

「……ご、ごめんなさい。尚香」

「それで良し! じゃあ、お兄様の部屋に行くまではそのままね」


 念を押して、尚香は歩き出す。
 歩きながら彼女が話すことは当然幽谷の婿候補である。


「ねえ、趙雲様はどのような方なの? もしかして、幽谷が先程言っていた猫族のお友達?」

「いいえ。趙雲殿は、猫族と行動を共にする人間の方。元は公孫賛に仕えていた武将だと聞いているけれど」

「そう。諸葛亮様は知、趙雲様は武……だとすると、諸葛亮様が良いかもしれないわね。会ってみないことには分からないけれど。他に、趙雲様に関して情報は無い?」


 そう言われても……どう言えば良いのか分からない。強いという印象を話せば、尚香はきっと不満に思う。
 なので、猫族からの彼の評価を話そうと記憶を手繰った。

 そして、


「……天然の人たらし?」

「え?」

「そう、皆様が言っていたような……」


 「人たらし……」尚香は困惑した。無理もないことだが、ただ猫族の評価を話しただけの幽谷は首を傾ける。
 尚香は拳を口元に当てて難しい顔をする。


「そんな人……いえ、周泰が婿候補として甘寧様にお話ししたのだからきっときちんとしたお方なのよね。猫族と親しいのなら、気安い冗談だったのでしょう……そうよね?」


 真剣に悩む尚香は、大きく頷いてやはり自分の目で確かめて考えると口にした。

 どうして、こんなに真剣に考えているのだろう。
 そんな場合ではないと思うのだけれど。
 今はとにかく曹操だ。当面の問題は北の脅威なのに……婚姻の条件まで持ち出しておいて。
 幽谷はこっそりと溜息をついた。


「尚香。あなた……私のことよりも婚姻のことを考えるべきだわ。もしかして、私を現実逃避には……していないわよね?」


 尚香はがばっと顔を上げてふるふるとかぶりを振った。

 ……しかし。


「そ、そんなことは……、…………ちょっとだけ」

「……やはり今から、」

「それは大丈夫! そのことを今からお兄様にお伝えするところだから!」


 尚香は大きく頷いてみせる。

 彼女も、きちんと自分の立場を分かっている。
 だからこそ自分を政略の道具にしろと兄に進言したのだろう。だいぶ思い付いた勢いに乗ったものだったけれど。

 でもそれは……あまりに悲しい。
 姫という存在は、自由が無い。どんなに周りから愛されても生まれながらに政略の道具になることが決定づけられている。それが当然。

 こんないきなり、しかも自分から言い出して……本当に良かったのかしら。
 私はあの場で反対しておくべきだったのかしら。
 笑って誤魔化そうとする主に、幽谷は僅かに表情を強ばらせた。

 だが、それ以上彼女の覚悟を問う前に孫権の部屋に着く。

 幽谷が中に声をかけ尚香の用件を告げると、静かな応えがあった。
 扉を開いて尚香を先に入れ、自身は部屋の隅に立つ。


「幽谷。お前もこちらへ。尚香のことは、お前も聞いておいた方が良い」

「……承知しました」


 孫権自らが尚香の隣に椅子を引いてくれた。拱手して感謝し、孫権が座るのを確認してから腰を下ろす。

 孫権は幽谷を一瞥し、尚香を見据えた。
 暫し沈黙して、


「尚香。あの話は本気で言っているのか?」


 尚香は慌てて頷いた。


「も、もちろんです! 私ももう子供ではありません。呉のために、お兄様のために何かしたい」

「だからといって、急に出てくるとは……」

「少しでもお兄様のお仕事の手伝いができたらと思って、こっそり見ていたの。それに、猫族の方がいらしていると聞いていたので……私は劉備様に助けられました。偶然お会いしただけだったけど、そのときにとてもお優しい方だと思ったのよ。私は、劉備様の人柄を見ていたから、同盟を組むに足る方だと伝えたかったの。でも、その話をしていたら甘寧様が幽谷の婿候補の話をされて、その、気付いたら、け、結婚の話を……」


 視線を下げる辺り、多少の後悔はあるのだ。
 幽谷が目を伏せて吐息を漏らすと、孫権もほぼ同時に溜息をついた。妹を気遣うように、柔らかな面持ちで声をかける。


「尚香……いまならまだ取り下げることもできるぞ」

「いいえ! 大丈夫です、お兄様。私は、呉の者として立派に務めを果たします。それに、提案した側から今更取り下げるなんて失礼にあたります。私、頑張ります!」


 尚香は大きな声で宣言する。

 それを受けて、孫権は目を伏せた。


「…………そうか。そこまで言うならば、私も同盟について考えよう」

「ありがとうございます。お兄様……」


 尚香は席を立ち、深々と頭を下げた。その頬は、また紅潮している。
 何なのだろう、今日の彼女は。
 探るように主を見つめていると、孫権に呼ばれる。


「幽谷。暫くここに残ってくれないか」

「……私は構いませんが、尚香様が」

「私は一人で戻りますから、大丈夫です」


 にっこりと、解放されたみたいに柔らかに笑って、部屋を辞す。大事な話だとでも思ったのか、その動きは素早かった。
 幽谷は尚香に拱手し、孫権を見やる。

 彼は足音が遠のいたのを確認し、真面目な顔をして幽谷に問いかけた。


「幽谷は、どちらの男性を婿に望んでいる」

「……」


 帰っても良いですか。
 そんな言葉が出かけたのを、すんでのところで止めた。



.

- 103 -


[*前] | [次#]

ページ:103/220

しおり