15
下らぬ舌戦は続く。
所詮は諸葛亮の、暖簾に腕押し。呉の家臣は、曖昧でぞんざいな返事ばかりを返すのみ。内心を隠しもしない彼らに、さすがの幽谷とて退屈で、苛々した。
甘寧は器用にも肘掛けに座って腕組みしたまま居眠りし、すでに話を聞いていない。
手応えも無い徐々に徐々に、劉備と関羽の顔も不安の色が滲み出ている。諸葛亮は根気良く話を続けていた。
されど、劉備には未だ諦めの色は無い。未だ食い下がろうという強い意志が、金色の瞳に浮かんでいた。
と、外で中の声を聞いていた尚香が、僅かに扉を開けて幽谷を手招きする。
それに気付いたのはどうやら周泰と幽谷のみのようで、周泰に視線で促され幽谷はこっそりと扉の外へ出た。
何か用かと思えば、ぐっと腕を掴んで中に強引に押し入る。何も言わずに大股に歩いて孫権へと歩み寄った。
「あ、あの……尚香様……」
困惑に主を呼ぶが、がっちり掴まれた腕は放されない。緊張のあまり爪が幽谷の腕に食い込んでいる。痛くはないが、こんなにも緊張しているのであれば、何も自ら間に入らなければ良かったのでは……と、主のことを案じた。
「………………尚香。どうした」
「あの……お兄様……少しよろしいですか?」
「尚香。大事な客人の前だ。ひかえろよ」
「……どうしても、お伝えしたいことがあるんです」
そこで、幽谷の手が解放される。
幽谷は彼女の一歩後ろに立ち、周瑜と孫権に目配せした。
尚香とて己の立場を弁(わきま)えている。その上で彼女は立ち聞きだけでは済まさなかった、それ程の意図があるのだと、幽谷は無言で二人に訴えた。
劉備が尚香を見、驚いた様子で目を丸くしている。
尚香は劉備に微笑み、恭しく一礼した。……また、頬が赤らんでいる。
「……尚香。私の妹だ」
孫権が紹介すると、関羽が劉備以上に驚いた。
どうやら、彼らは尚香と面識があるらしい。尚香を呼んで問うと、後で話すとはにかんで答えた。
その幼くも整った愛らしい顔は、孫権と再び向き合った瞬間にきゅっと引き締められる。
「尚香。用件は何だ」
「お兄様……呉は、曹操軍とではなく劉備様と手を組むべきですわ」
途端、呉の武将の一人が卓を叩いた。
「なっ!? 突然なにをおっしゃるのですか! 尚香様はご存知ないのです! 曹操という男の恐ろしさを! 曹操が本気になれば、我が国はたちまちつぶされてしまうのですぞ!」
「確かに曹操軍との同盟を断れば、どんな攻撃をされるかわかりません。でも、だからこそ呉は劉備様と手を組み、共に曹操を倒さねば……」
熱を入れて語る尚香に、幽谷は戸惑うばかり。
頬は赤いし、必死の様子だし……茶会の時は普通だったと思うのだけれど。
首を傾げていると、周瑜と周泰が怪訝そうに幽谷に寄ってくる。孫権のもとまで連れて行かれた。
「どうしたんだ、尚香のやつ」
「……幽谷」
「いえ……私には何とも。兄に呼び出されるまでは普通に過ごしていらしたと思うのですが……孫権様は、」
かぶりを振って否定される。
四人揃って尚香を見やり、首を傾げ合う。
「そ、そうは申されましても、尚香様。そもそもこの劉備殿が、信用できるお人とは限りますまい」
「いんやぁ、少なくともお前達よりは信用出来るぜー」
「「「!!」」」
ぎょっと甘寧を見る。
……。
……。
……寝ている。
寝言だろうか……いや、その割には何とも丁度良い寝言だ。
周泰の腕を引いて視線で問うと、周泰は眉間に皺を寄せて蒋欽と目を合わせていた。
尚香はどちらか分からぬ甘寧の様に苦笑いをした。
「それは大丈夫です。私は、劉備様が信用できる方だとわかります」
「なっ! なにを根拠に申されておるのです!」
「まだ味方でもない相手のところに赴かれている。それはつまり、命をかけて交渉に臨まれているということ。そんな危険を冒してまで、劉備様はこうして自らこの国にいらっしゃったのです。……いいえ、そもそも猫族のご先祖は甘寧様の盟友。私たちはその覚悟だけでなく、私達にご助力下さる甘寧様の御心にもお応えすべきでは?」
真っ直ぐな言葉をぶつけられた武将は反論しようにも言い澱む。
「それに私は劉備様がお優しくて、信頼できる方だと知っています。……私は先ほど助けられたのですから」
「え」
助けられた……先ほど。
それはつまり、幽谷が戻ってすぐの、僅かな供で出掛けていた時のことだ。
責めるように尚香を見てしまったのは、仕方がない。
尚香は幽谷に頭を下げて素直に謝罪し、劉備の方へ歩み寄った。慌てて幽谷も追いかける。
「……またお会いできて嬉しいです。あの時は本当にありがとうございました」
劉備は依然困惑して言葉を返せないでいる。
それに構わず、尚香は武将達を見渡した。
「劉備様は見ず知らずの私にも親切にしてくださいました。きっと呉とも良い関係を築けるわ」
「尚香様、これは呉の重要な問題です。そう易々と結論は出せません」
「そんな……そんなに信用できないと言うの?」
「曹操と戦うことになるのですぞ。大群で攻められたときに、いきなり寝返るなんてことをされたら堪りませんからな」
「左様。我々としては、いざという時に裏切らないという保証がないと……」
「保証……」
「そうです保証です。呉と劉備軍がより強い関係を持つための条件とでもいいますか……そう、例えば双方に血縁者がいるとか……」
――――パンッ。
不意に、誰かが手を叩いた。
甘寧だ。
「そうだ、思い出した!」
場に似つかわしくない声に、皆が怪訝そうに見る。本人はそれを気にした様子も無い。「いやー、今思い出せて良かったわー」などと脳天気に笑っている。
周瑜がうんざりした風情で甘寧の頭を叩く。
「あのな、甘寧。アンタ何の為にここにいるんだよ」
「ん? いや、趙雲ってのが合流したのかなと訊きに。あと諸葛亮の立ち回りを観察――――とついでに劉備と関羽の観察?」
「出て行け」
「断る。……で、劉備。趙雲って男は、まだか?」
甘寧は何処かうきうきとして劉備に歩み寄る。
困惑しっ放しの劉備は混乱が極めて、ぎこちなく首を左右に振るのみだ。
「何だ。……暫定一位は諸葛亮ってことかー」
「……甘寧。何の話をしている」
孫権は唯一、平常なまま問いかける。
甘寧は実にあっけらかんと答えた。
「幽谷の婿候補」
「え!?」
「はあぁ!?」
「……はあ」
周瑜や関羽達が驚くのに、幽谷本人は淡泊な反応だった。
周泰がこめかみを押さえ、蒋欽が苦笑混じりに、それぞれ孫権に謝罪した。
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