13





 封統は、幽谷の見送りも許さず、城中を探しても彼女は見つからなかった。もう、出発してしまったのだ。
 それを恒浪牙に謝罪と共に伝えると。仕方がないと頭を撫でられた。

 だが、封統のあの憎悪によって猫族の空気は更に悪くなった。封統としてはそうしたかったのだろう。そうやって悪い方向にばかり持って行って、劉備の《処分》を確実なものにしたかったのやも。
 封統の憎悪は相当なものだ。百年間、彼女は憎悪が蓄積され続けて、もう猫族とも人間とも混ざることは出来ない。

 幽谷は、封統が猫族から、人間から受けた仕打ちを知らない。だから諫めることも出来ないし、現在の猫族に非が無いとも言えなかった。

 甘寧の命令一つで、殺したい程に悔み続けた存在を守らなければならない。殺したいのに許されない。
 ……封統にとってこの状況はどんなに辛いものなのだろう。今までの記憶が欠如した不完全な幽谷には想像すらも出来なかった。
 幽谷の胸中にも蟠(わだかま)りが残ったまま、劉備らと共に現在孫権が駐屯する柴桑に向かった。

 久方振りの柴桑は、出た時と変わらぬ殷賑(いんしん)な様だった。
 柴桑に入ってすぐに幽谷と恒浪牙は甘寧に報告をしてくるからと諸葛亮に簡単な道案内をして劉備達とは別れた。
 報告だけなら恒浪牙だけで良い。だが同盟を結ぼうというのだから、甘寧が劉備に厳しくしつつ最終的に孫権達の決断に委ねている以上、狐狸一族とそれと親戚関係にある者が共にいるのは好ましくないのだ。

 幽谷は柴桑城に戻り、主の部屋へ向かう。
 けれども部屋に着く前に、顔見知りの女官に不在を告げられた。
 どうやら、幽谷よりも先に戻ってきた孫権への贈り物を自ら引き取りに僅かな共だけで城を出てしまったのだとか。
 僅かな従者、という点で不安を抱いた幽谷は、すぐに城を出た。
 雑踏の中親しくしてくれている者に主の姿を見なかったかと訪ねて回り、目撃証言を頼りに柴桑の街を歩き回る。

 そして――――ようやっと見つけた。
 いや、見つけられたと言った方が正しいか。


「幽谷!!」

「っ!」


 背後から抱きつかれ、息を詰まらせる。
 よろめいたのを持ち直して身を捩ると、愛くるしい笑みを浮かべて「お帰りなさい」と声をかけてくれる主の姿。

 幽谷は彼女をやんわりと剥がし、拱手した。


「ただ今戻りました、尚香様」


 孫尚香。
 孫権の妹である彼女が、幽谷が侍女として仕える人物であった。
 尚香は幽谷の態度に一瞬だけ不満そうに唇を尖らせた後、すぐに嬉しそうに笑った。


「猫族の方々と一緒だったのでしょう? 怪我はしなかった?」

「は……いえ、多少は。完全に癒えています」


 咄嗟に隠そうとしたのだけれど、孫権が尚香に話すと臭わしていたのを思い出し素直に報告する。
 尚香はこれに、むっとした。


「幽谷。無茶をしちゃ駄目よ。あなたは嫁入り前の女性なの。身体をもっと大事にしなさい」

「しかし、尚香様……」

「しかしもかかしもありません! 良いわね?」


 ずいっと迫られ、幽谷は頷く。
 すると尚香は満足そうに頷いて身を引いた。


「今日は良いことばかりだわ。後でお茶をしながら、旅の話を聞かせてちょうだいね、幽谷」

「あ……はい」


 尚香は幽谷の手を握って、城に向かって歩き出す。
 もう片方の腕に大事そうに抱えている反物が、孫権への贈り物なのだろう。幽谷が持つと申し出るが、これは自分で持って帰りたいととろけるような笑みで返された。つられて、こちらも表情が弛んでしまう。

 尚香の顔を見て、初めて柴桑に戻ってきたのだと幽谷は実感した。



‡‡‡




「――――そうだったの!」


 尚香は他の侍女達と同じく嬉しそうに笑顔を咲かせた。


「幽谷、お友達が出来たのね! 良かった!」

「一歩前進ですね、姫様」


 尚香は我がことのように喜ぶ。頬を赤らめて大きく頷いた。
 尚香の方が年下の筈だのに、彼女は幽谷が色々と危ういからとあれこれ世話を焼く。尚香が危なっかしいと言えば他の侍女達もそんな風に感じられたようで、侍女からもよく指導を受けたりした。

 まるで姉妹の末っ子になったかのような心地だ。本当の家族みたいで、決して嫌ではないが。
 だが……友達が一人出来たくらいで、これはさすがに大袈裟な気がする。


「あの……そこまで喜ばずとも……」

「喜ぶに決まってるじゃない! 幽谷、ここで私達以外にまともに話せる人間といったら、お兄様か黄蓋くらいだもの!」


 ぐっと拳を握って断じる主に、侍女達も大きく頷いて賛同する。
 ……心配されているのは有り難いと思う――――ようにしている――――けれど、何だか複雑である。

 お茶を啜り、幽谷は視線を彼女らから逸らした。


「今度、私もそのお友達になって下さった方にお会いしたいわ。どんな方なの?」

「猫族の方です」

「まあ、猫族!」


 こちらの周瑜しか猫族を知らない侍女らは一様に青ざめた。
 ぐいっと身を乗り出し口々に言う。


「まさか殿方ですか!?」

「いけませんよ幽谷! 周瑜のような者でしたら即刻縁をお切りなさい! あなたにはもっと相応しい殿方がいらっしゃる筈!」

「そうですわ、幽谷! ……まさかもう手込めにされて――――」


 自分で言って、ひきつった悲鳴を上げる。
 毎回ながら、大した想像力だと幽谷は思う。
 張飛には好きな相手がいるらしいが、それを言ったらまた色々と広がっていきそうだ。
 幽谷は青ざめたり真っ赤になったりと忙しそうな侍女達を眺め、話を変えようかどうか思案した。

 ややあって、


「……戦友、でしょうか」


 何となく思いついた単語を言い、一人頷く。
 張飛との友人関係を表すなら、きっと『戦友』だろう。鍛錬もするし、戦い方について話したりもした。


「いつか背中を預けて戦えるような友人になれたらと、思います」


 これで少しは落ち着くか。
 そう思ったのだが。

 何故か侍女達はがくっと分かりやすく落胆した。……解せない。

 首を傾ける幽谷に、尚香が楽しげに笑った。



.

- 99 -


[*前] | [次#]

ページ:99/220

しおり