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 その気配を先に感じたのは、幽谷だった。
 足を止めて関羽を背に庇うように立って振り返る。

 関羽が幽谷を呼んだ直後に、声は聞こえた。


「こんなところにいたの? ずっと探してたんだよ。君と二人きりになりたいって言っただろ? ……あ、でも幽谷は一緒にいて良いよ。君は特別だから。関羽とは意味が違うのだけど」

「はあ……」

「……」


 関羽は幽谷の外套を摘んで、隣に並んだ。

 その、暗く沈んだ顔に彼――――劉備は「どうしたの?」と無邪気に笑いかける。


「そんな暗い顔して。折角曹操軍を撃退したのに。まあ、幽谷や甘寧が止めなければ皆殺しだったけどね」


 彼はその時を想起する。
 愉しげだった表情は一転し、不機嫌そうに歪んだ。コロコロと、不穏な変化は唐突だ。


「ああ、今思い出しても曹操はムカつくな。君を連れて行こうだなんて! まるで君を自分の物か何かのようにさ!」


 忌々しげに吐き捨てる劉備に、関羽は幽谷に縋るように身を寄せた。怯えていると言うよりは、申し訳なさそうで、酷く悲しげだ。


「ねぇ、曹操は君のことが好きなのだろうね。だとしたら、殺すくらいじゃ済まないよね。生きたまま内臓えぐり出してやらないと。あの取り澄ました男が苦痛でどんな喚き声をあげ……」

「もうやめて!」


 関羽は声を張り上げた。ややあって、俯きか細き声を絞り出す。


「そういうのは……もう、やめて」

「…………どうして? ねぇ、もしかして君、曹操のことを庇ってるの? 曹操を殺す話をしたら止めてって! どうして!? どうしてそんなに奴のこと庇うのさ!」

「そういうことじゃないわ……」

「じゃあなんだっていうの? ……もしかして、いや、やっぱり今の君も、曹操に気があるの? だとしたら、僕……、僕……」


 彼の表情が、また変わって行く。
 凶悪なかんばせに幽谷は関羽を背中に引いた。

 しかし、関羽は劉備の言葉に引っかかりを覚えたようだ。「今の君も……?」怪訝そうに反芻(はんすう)する。

 劉備は声も無く何かを呟き、ぎりっと歯軋りした。


「ああ……! そんなこと絶対に許せない! き、君が、また、曹操のことを……また僕じゃなくて曹操を……! そんな……そんな……」

「な、何を言っているの? また、なんて……どういう……」

「ああ、やっぱり今すぐ曹操のもとへ行かなきゃ。一度ならず二度までも君のことをたぶらかすだなんて、体中切り刻んですべての血を絞り出してやらないと……!」


 怨嗟(えんさ)の声は幽谷の背筋を逆撫でし、鳥肌を立たせる。
 邪に囚われた劉備の、なんとおどろしきことか。
 劉備自身の良心は関羽や自分よりも己の邪の心を感じている。それ故に、苦しむのだろう。
 猫族を守りたいが為に、取り戻した力だというのに。


「そ、そんな言い方やめて……。それにさっきから、言ってることが少し変よ。何だかまるでわたしが、」

「違う!!」


 劉備の否定は鋭く鼓膜に突き刺さる。

 気迫に負けて関羽は幽谷にしがみついた。


「……僕は、君に近づくやつがいたらどんなやつだって殺すよ。趙雲だろうが周瑜だろうが、周泰だろうが殺す」

「劉備!」

「……本気で言っているのですか」

「僕には、君と幽谷がいれば十分なんだ。だったら、君達には僕がいれば……十分じゃないか。この世に愛し合う僕と君、そして僕達を心から慕って、支え守ってくれる幽谷――――それが一番幸せな世界だと思わない? 僕は、そんな世界がいい。僕の大事なものだけの素敵な世界。それが、僕の願う世界なんだよ」


 さっきから……彼は一体何を言っているのだろう。
 幽谷は眉間に皺を寄せずにはいられない。
 何だか、幽谷は劉備や関羽に近しい存在であるかのような物言いだ。
 そんな筈ないのに。

 彼の澱んだ独占欲は、何故か幽谷にも向けられている。

 まさかこの人も張遼と同じように、違う《幽谷》と重ねている?
 そんな近い時代に、私と良く似た幽谷いたということ?
 それともそれは、金眼の記憶……?
 分からない。

 頭が、混乱する。

 と、関羽が幽谷を見上げてむっと眦(まなじり)を決した。幽谷から離れて劉備に歩み寄り、爪先立ちになって頭を殴りつける。


「な……! また!? なんで……どうして、僕をぶつのさ……」

「それ以上、ひどいことを言わないで! 幽谷には幽谷の大事な家族がいるのよ。それなのに、勝手な理由で大事なお兄さんを殺すなんて……いいえ、そもそもそんなの、幸せなんかじゃない。そんな世界を望む劉備なんて嫌いよ!」


 劉備は目を丸くした。
 彼の手が関羽の肩を掴もうとしたのを、幽谷が関羽を引き寄せる。拒絶の言葉を吐いた関羽に彼が何をするか、危惧した為だ。

 関羽は肩を縮め、息を詰まらせた。幽谷に抱きつき、涙混じりに謝罪する。


「ごめんなさい……。わたしも頑張るって言ったのに、大丈夫って言ったのに……あなたの願いをあなた自身が踏みにじるのを止めることが出来なかった……。あなたがどれだけ、願っていたことか、望んでいたことか、わかっていたのに! 何も……何も出来なかった……。わたしが何もしなかったから、幽谷が死にかけてしまうことにもなってしまった」

「いえ、あれは私の独断ですから……」


 関羽はふるふると首を激しく左右に振った。何度も何度も、幽谷と劉備に謝り続ける。


「関羽……」


 劉備は力無く、弱り切った声を漏らした。だらりと腕を下ろし、泣きそうな顔で関羽を見下ろす。
 その顔は、いつもの劉備だ。

 彼は自分の両手を見下ろし、目を伏せた。


「僕はまた、邪に囚われてしまったんだね……。こんなにも君を悲しませて」

「劉備ごめんなさい……。わたし偉そうなことばかり言って何ひとつ出来なかった……。あなたの願いを、守れなかった……」

「謝らないで……。君は何も悪くない。悪いのは僕だ。力と血に酔い、何も制御出来ずただ振り回され、惨劇を引き起こし、そして人心は離れていった……」


 幽谷も、傷付けた。
 彼は近付こうとはしなかった。たった二歩歩けば良いだけの距離を、縮めはしなかった。
 幽谷は関羽の背中を叩き、そっと劉備へと向かい合わせに立たせた。そうした方が、良いような気がした。


「前にも言ったよね。呪いと共にあった僕は、幸せも喜びもすべてを諦めてきたって。何度も何度も幸せを諦めて、それでもやっぱり諦めきれなくて……。そして、ようやくこの姿を取り戻したんだ」


 けれど、駄目だった。
 金眼の呪いは抗い難く劉備を犯す。邪へと彼を誘引し、苦しめる。
 僕が幸せを望むなんて、到底無理だったんだ――――そう、寂しそうに劉備は漏らす。


「それでも……、それでも……往生際が悪いけど、諦めきれないんだ。僕だって、幸せになりたい……!」

「幸せになろうとして足掻くのは全ての人間だ」

「!」


 幽谷ははっと劉備の後ろを見やった。
 いつの間にいたのか、そこには恒浪牙が腕を組んで立っていた。賊然とした姿ではなく、柔和な物腰の天仙の佇まいである。

 咄嗟に視線を逸らして一歩後退したのに、彼は叱りつけるように厳しく声をかけた。


「幽谷。大事を取って今日は休んでおきなさいと言ったでしょう」

「……すみません」

「あ……あの、ごめんなさい。わたしが一緒に散歩をして欲しいって言ったから」


 恒浪牙は苦笑し片手を振って、肩をすくめる。
 ゆっくりと歩み寄って幽谷を手招きする。そうしながら、劉備に近付き、


「人間は皆幸せが欲しいものです。それは何の罪も無い、自然のこと。ただ、あなたは幸せを求める前に、あなたがしたなまなかな覚悟をなまなかなまま終わらせぬよう、裏切らぬよう抗う義務がある。一族の長として決断をしたのなら、途中で放り投げることは、今あなたが抱える罪よりも重いものであると心得なさい」


 恒浪牙は手を伸ばし、劉備に頭を撫でた。


「金眼の力を解放したとて今のあなたは弱い。私や狐狸一族の者からすれば強くなったとはお世辞でも言えません。ですから、これから先伯母上はとても厳しい言葉をかけるでしょう。欲望は必ず人に宿るもの。あなたがどのような望みを抱いても、それを消せとは言いませんが……その為だけに一族を捨てるというのなら――――俺も狐狸一族も、心からお前を軽蔑するわ」


 不意に声が変わった。
 けれどもそれは最後の科白だけ。
 恒浪牙は幽谷の腕を掴み、劉備に背を向けた。


「あなたは関羽さんの為に全てを捨てても良いと思っているようですが、《あの子》は決してあなたと関羽さんの為だけに命を擲(なげう)ったのではありません。あの子はあくまで猫族全体の為に犠牲になることを選び、猫族の心の為に、抹消されることを望んだ。……それを、お忘れ無きよう」


 劉備は応(いら)えを返さなかった。
 振り返れば、彼は泣きそうな顔で幽谷を見つめている。

 それに、幽谷は困惑する他無かった。
 どうして自分がそんな風に見られなくてはならないのか分からない。
 出会って、さほど時も経っていないのに。


「幽谷。戻りますよ」

「あ、はい……」


 恒浪牙に呼ばれ、幽谷は劉備から視線を逸らした。



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