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 関羽の様子が気がかりで、日が暮れてから幽谷は関羽を捜した。
 それ程時間はかからずに彼女は見つかった。
 野営地から少し離れた場所。そこに、一人で立っていた。


「関羽殿」


 幽谷が呼ぶと、彼女はぎょっとして幽谷を振り返る。幽谷であることに、非常に安堵していた。

 向き直った関羽の前に立つと、彼女はまず傷のことを指摘した。
 それもそうだ。劉備の爪がしっかりと幽谷の胸に突き刺さったのを、彼女は見ている。それが無かったのだから不審に思うのは当たり前だった。

 こういう時どう答えるべきかも、甘寧達にすでに言われていた。


「恒浪牙殿に、痕を残さぬようにと」

「そう……恒浪牙さんなら、ちゃんと治してくれるものね。わたしも一度だけお世話になったの。……いつだったか、ちょっと覚えていないのだけれど、囲碁を打って気を紛らわせながら治療をしてくれたの」

「左様でございますか」


 関羽は微笑みを浮かべて頷く。
 そうして、野営地の方を見やって表情を陰らせた。
 幽谷に背を向け問いかける。


「……ねえ、幽谷。甘寧さんに、わたしが劉備の毒だって言われたの。……わたし、劉備の側にいない方が良いのかしら」

「……」


 ああ、やはりそのことを言ったのだ、彼女は。
 関羽は幽谷を振り返らずに肩を縮め、重々しい溜息を吐く。


「……わたしね。劉備に言ったの。劉備を守る、大丈夫だから……って。とても偉そうなこと」


 だのにあの時、わたしは何も出来なかった。
 一瞬、声が震えた。
 甘寧の言葉を、伝えた方が良いのだろうか。言っても良いだろうか。
 迷う幽谷の様子に気付く筈もなく、関羽は言葉を続けた。


「劉備が金眼の力に飲み込まれて、曹操軍の兵士達が呆気なく殺されていくのを……ただただ見ていることしか出来なかった。わたしに、劉備を責めることは出来ないわね」

「関羽殿」

「だから、甘寧さんもわたしに毒だって言ったのかもしれないわ。幽谷が身を挺して止めてくれたのに、わたしじゃ、劉備を止めることも出来ないのかも……。幽谷、ごめんなさい。わたしが止められなかったから、怪我をしてしまって……」


 幽谷は首を傾けた。
 躊躇うように、徐(おもむろ)に口を開いた。


「毒、とは……薬と背中合わせの物です。そう言う意味で、母は言ったのではないかと……私は思います」


 甘寧が言ったとは言わない。あくまで自分の印象であるかのように話せば、良いだろう。
 言葉を慎重に選びながら幽谷は振り返った関羽に話す。


「すみません。私には母の真意は、はっきりとしたことは分かりませんが……ただ、失望したのならばそのような厳しい言葉はかけぬかと。猫族の長にも、それは同じこと。母は、私達にも思考が読めません。ですが、私の兄は皆仰います。叱りつけるのは、母がその相手を良く見ているからだと」

「相手を良く見ているから……毒は薬と背中合わせ……」

「あまり、悪い方向に考えずとも良いと、私は思います。……印象の話ばかりで、申し訳ないのですが」

「幽谷……」


 関羽は黙り込んだ。思案し、目を伏せる。
 次に目を開いた時には表情は穏やかだった。


「……ありがとう。そうね。あなたの言う通り、本当に見捨てられたのなら、あんな風に声をかけてくれすらしない、わよね。甘寧さんの言葉、もっと前向きに考えてみるわ」

「……はい」


 その言葉に、ほっと安堵する。
 幽谷は関羽に拱手してその場を辞そうとした。

――――が。


「っ?」


 外套が引っ張られる。
 犯人は言わずもがな。


「……」

「……」

「……あ、あの……?」

「あ、いえ、あの、……幽谷の方から話しかけてくれて、励ましてくれたのが嬉しくて……で、出来れば、もっと話したいのだけど、駄目……かしら」


 肩越しに振り返れば怖々と見上げてくる。
 それがまるで、置いてけぼりにされた子供のようで、幽谷は嫌とは言えなかった。

 向き直ると、関羽は胸を撫で下ろした。


「良かった……」

「……はあ」


 何が、良かったのだろう。
 ……いや、確かに圧し負けて逃げていたが。最近はそうでもなかった……筈だ。
 幽谷は無表情ながらに首を傾け、関羽が話し出すのを待った。

 関羽は慌てた風情で話題を探し、掌に拳を落とした。


「そう言えば幽谷、眼帯はもうしなくて良いの? 四凶だって、隠していたんでしょう」

「正しくは四霊です。ええ。本当はしていた方が円滑に進むのでしょうが……曹操軍が現れた時に外し、大勢の目に触れましたから。隠したとて意味は無いかと」

「四霊……四凶じゃなくて、四霊というの?」

「恒浪牙殿や母は、四凶とは猫族が最初に、勝手に付けた蔑称であると伺いました。それが、人間達の中でも言われるようになり、いつの間にか北では四凶として嬰児(みどりご)のうちに殺されるのは慣習となっていたのだと」


 関羽は目を見開いた。


「猫族が、最初なの?」

「最初の四霊は猫族の娘であり……猫族の方々からの迫害の果てに殺されたと」

「そう、だったの。……ごめんなさい」

「いえ、私に謝られても……」


 幽谷は、その猫族の四霊ではない。
 それに最初の四霊は――――封統は、謝罪されれば怒りを露わにするだろう。彼女の憎悪は、とても深いのだ。
 関羽は話題を間違えてしまったと、またすぐに話を変えた。


「南の方は、四霊として敬われているのね」

「そう言った信仰は、昔からあったようです。それが数年前に、呉の孫堅の妻の妹が四霊であり、離れた場所で亡くなってしまった彼の遺体を這々の体で連れ帰り、孫策に引き渡した直後に息を引き取ったという話で、信仰は盛り上がっているようです」

「そうなのね……何だか、申し訳ないわ。……それと、甘寧さんは呉にいるの?」

「はい。孫家を気に入って、そのまま兄達を武将として仕えさせ、頃合いを見て移住したようです。……人が入って来れぬ秘境に、ですが」


 関羽は感心した様子で幽谷の返答を聞く。
 かと思えば、ふと小さく笑った。

 幽谷が首を傾ければ、笑声混じりの謝罪。


「普通に世間話が出来てるなって思って、嬉しいと思ったら笑ってしまったの。気を悪くしたらごめんなさい」

「いえ」

「少し、散歩でもしない? 無理にとは言わないけれど」


 幽谷はつかの間思案した。
 このまま帰るか、関羽に同行するか。
 ……曹操軍の兵士が彷徨いている可能性も無いことも無いから、念の為一人にしない方が良いわよね。
 幽谷は短く頷いて了承した。

 関羽は、嬉しそうにまた笑った。



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