幽谷と夏候惇





 一大事だった。
 曹操軍の軍馬が一頭野営地から忽然と姿を消したのだ。

 たかが一頭だが、今この野営にいる馬は追討の為に駿馬を揃えていた。故に、一頭でも逃すワケにはいかなかった。

 夏候惇はすぐさま捜索に動いた。
 兵士の話によれば、よりにもよって十三支の野営地へと向かってしまったらしい。
 十三支なんぞに近付きたくないというのが本音だ。
 されどそう言ってはいられない。簡単に逃がすのはとても惜しい駿馬だ。


「何処に行ったのだあいつは……」


 もう二時間程捜しているが、求めた姿は何処にも見当たらない。
 よもや遠くに行ってしまったのではあるまいか――――そんな考えが浮かぶ。

 だが、不意に馬の嘶(いなな)きが聞こえた。
 それは、聞き慣れた馬のそれだった。


「森の方か……!」


 すぐさま方向転換し、茂みに飛び込む。
 また嘶き。近い。
 己の耳だけを頼りに暗い森の中、木々の間を縫い、腐葉土を蹴り上げて駆け抜けると、急に視界が開けた。

 そこは泉だった。

 水面が月光を反射しきらきらと光の粒子を舞わす。
 幻想的な美しさを放つ泉の畔(ほとり)に、夏候惇の馬はいた。

 とある女性の側に寝転んで。

 まさか!
 一つの可能性が思い浮かんで、腰にはいた剣を抜いた。


「四凶ぉっ、貴様あぁっ!!」


 彼女に駆け寄れば、馬の首が持ち上がる。
 えっとなって止まれば馬は立ち上がり、耳が後ろに伏せて恐ろしい形相でこちらを見つめてきていた。威嚇だった。

 安易に近付けば、噛みつかれる。


「……」


 馬は生きていた。だが、これでは連れ帰ることは難しい。
 まずは凶器をしまい、様子を見てみよう。
 剣を鞘に戻して背筋を伸ばした。

 その時である。


「駄目よ。落ち着きなさい」


 女が口を開いた。
 すると馬は耳を戻し、甘えるように女に顔を近付けた。

 女は振り返り、優しい笑みを異質なかんばせにたたえて馬の顔を撫でた。


「私は気にしていないわ。だから落ち着きなさい」


 丁寧な口調ではなく、女性らしい口調であった。


「四凶、これは一体どういうことだ」

「それは私のような存在の総称であって、私の名前ではありません。幽谷です」

「そんなことはどうでも良い。俺の質問に答えろ」


 女――――赤と青の色違いの瞳を持つ四凶の幽谷は、片眉を跳ね上げ、馬に肩をすくめて見せた。


「あなた達のご主人様、人の話を聞けないのね」

「俺の質問に答えろと、そう言った筈だ」

「しかも身長は私と変わらないのに何かにつけて偉そうだし……あなた達も苦労するわね」

「身長は関係ない!」


 こいつは遠回しに俺に嫌がらせをしているのか!!
 四凶が馬に、自分に対する愚痴を言っている。それが彼の矜持をどれだけ鋭利な槍で突いているか……想像に難くはない。


「貴様はぁ……っ、俺に」

「喧嘩なら売っておりませんので勘違いなさいませぬよう」


 言おうとした言葉が奪われる。
 夏候惇は歯噛みし、拳を握った。


「怒るのも早いわね。あなた達のご主人様」

「……っ貴様ぁ!!」


 思わず剣を抜いてしまった。

 それに馬がいち早く反応し、前足を高く上げた。
 夏候惇は馬の様子に気付くなり舌打ちする。

 馬は前足に地を付けると夏候惇の方へ突進してきた。


「止めなさい!」


 幽谷が怒鳴るが馬は止まらない。
 馬は完全に幽谷を守ろうとする姿勢だった。夏候惇をまったき敵と見なしている。


「四凶に絆(ほだ)されたか……!」


 ならば殺す。
 汚らわしい四凶に与するならば、そんな馬など要らぬ。

 斬り捨てるつもりで剣を構え直すと、不意に横合いから夏候惇に躍り掛かる姿があった。

 それは夏候惇に抱きつくとそのまま、横に押し倒した。


「な――――」


 地面に背中をぶつけ、身体の上に重みと温もりがのし掛かった。息が詰まる。

 馬が走り去っていった。

 何が乗ったのかと下を見ると、


「何とか避けられましたね」

「んなっ!?」


 幽谷だった。


「――――っ!!」

「っ、」


 夏候惇は咄嗟に幽谷の身体を押し飛ばしてしまった。

 幽谷は尻餅をついた。きょとんとして、彼を見つめる。


「俺に触るな!!」

「ああ、それはすみませんでした」


 大して堪えた様子の無い、むしろ納得したような彼女は立ち上がって地面を前足で蹴る馬に向き直った。


「止めなさい」


 一言。
 それだけで馬はぴたりと止まった。幽谷に歩み寄り、また顔を寄せた。


「良いのよ。あなたは私を守ろうとしてくれたのだものね。でも、ご主人様を傷つけてはいけないわ。さあ、今日はもう帰りなさい。もう抜け出して来ては駄目よ」


 彼女が首を撫でると馬はぶるると鳴いてそのまま森の中へと入っていった。

 それから幽谷は倒れ込んだままの夏候惇を振り返る。


「立てないのであれば手をお貸しいたしますが」

「……っ、要らん!」

「左様でございますか。それとあの馬のことですが、私がこちらにおりましたところ、一頭だけやってきた次第です。そちらの軍馬の中にいたと記憶しておりましたので、宥めておりました。馬はもう一人で戻りましたので、ご安心を」


 「では、私はこれにて失礼いたします」幽谷は頭を下げて、その場を離れる。

 静寂の中に、虫や梟(ふくろう)の声がする。その中に混じって幽谷の草木を踏み締める足音がした。

 夏候惇は彼女の背を見送り、ふと手を見下ろした。
 幽谷の肩を押した手。
 存外華奢だった、幽谷の肩――――。


「ちっ、忌々しい……っ!」


 ぐっと拳を握り、倒れた際に取り落とした剣を拾い上げた。
 彼女に触った手。
 野営地に戻ったらば、すぐに洗わなければ。



 汚れる。



●○●
 現時点ではまだ彼は夢主のことは四凶として嫌っています。
 これから仲良くなれたらなーと思います。
 そしていつになく駄文ですみません……。


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