幽谷と関羽と曹操と時々夏候惇と劉備




 猫族の村を発って二日三日経った頃である。

 野営地にて夕餉を終えた幽谷は、関羽と共に鍋などを片付けながら曹操軍の動向を見張っていた。
 猫族の者達は皆それぞれ談笑したり、食後の運動として鍛錬に励んだりしていた。

 曹操軍の兵士も、彼らと変わらない。

 ただ頭に猫の耳が生えているだけなのに、一体何処が違うというのか。
 人間とはかくも分からぬ生き物である。


「幽谷、どうしたの? 手が止まっているわよ」

「え? あ、ああ……ごめんなさい。少し、ぼーっとしていたわ」


 関羽に指摘されて、気付く。


「休んだ方が良いんじゃない? 幽谷ったら、村を出てからもずっと寝ていないでしょう?」

「それならば大丈夫よ。気にしないで。私のことよりも、あなたはどうなの? 村を出てから、少し呼吸が速いように思えるわ。気を張っているんじゃなくて?」


 鍋を置いて、関羽の頬を撫でる。二・三日しか経っていなのに、肌が少しかさかさしている。
 みずみずしかった肌が、何と勿体ない。


「……ごめんなさい、こうなることなら曹操軍を全て殺してしまった方が良かったのかもしれないわね」

「そんな……駄目よ。幽谷はわたしたちの為に手を汚さなくたって良いの。皆、あなたにそんなことをさせてまで平穏な暮らしを求めない筈だわ」


 頬に当てた手を握られる。女性なのに武骨な手の温かさに、ほっと安堵した。


「……ありがとう、関羽」


 幽谷は笑って手を握り返した。

 すると不意に、


「幽谷……といったか」

「――――これはこれは、曹操殿」


 珍しいことがあるものだ。
 まさか、かの曹操がこんなところに単独で来るなんて。夏候惇が付いてきそうなものだが、今日は彼の姿は見えなかった。
 幽谷は関羽から手を離し、彼に拱手した。



「曹操、何か用?」

「お前ではない。私は幽谷に用がある」

「私に?」


 彼は答える代わりに黒く細長い布を幽谷に投げて寄越した。

 それを怪訝に見下ろし、曹操を見やる。


「これは?」

「それで両目を隠せ。さすがに四凶まで連れているとなれば、我が軍も参加させてもらえぬ恐れがある」

「……両目、ですか」


 これは、困った。
 両目を隠してしまうというのは、初めての経験である。
 視界を完全に閉ざされた中で、果たして力加減ができるのか。

 布を見下ろし、幽谷は思案する。

 その隣で、幽谷の代わりに関羽が抗議した。


「そんなの勝手だわ! 両目を隠してしまったら何もできないじゃない!!」

「そうだな。だがこれがその程度で力を落とすとは思えぬ」


 まあ、確かにそうだ。むしろ加減ができないので本来の力が出てしまう。
 それはそれで、困るのだけれど。


「曹操殿、二つ程よろしいですか」

「何だ」

「猫族の皆様方に迷惑をかけたくありませんので、目隠しは致しますが――――」

「曹操様!!」

「……」


 夏候惇が曹操の後を追いかけてきたらしい。
 言葉を遮られた幽谷は小さく溜息をついた。


「曹操様! どうかお一人で十三支のところに行くのはお止め下さい。奴らが何をするか、分かったものじゃありません」

「構わん。十三支達も馬鹿ではなかろう」


 鼻で笑う曹操に苛立たしいものを感じたが、耐える。腹立たしいのは、何も自分だけではないのだから。


「曹操殿。話を戻しますが、一つ目に兵士も武将も、勿論あなたも決して私の後ろには絶対に立たないで下さい」

「理由は?」

「視界を閉ざす以上、私は常に意識を研ぎ澄まさねばなりません。元々暗殺家業の名残でその気がございました故、猫族の方々にはすでに注意していただいてはおりますが、出会って間もない曹操殿の軍の人間とあらば、真実反射で殺めてしまうやもしれませぬ。一人でも戦力を失いたくなければ、私の指示に従った方がよろしいかと」


 カチリ、と音がした。
 夏候惇が剣に手をかけたのだ。怒鳴らないだけ、ましか。


「四凶が私に指示をするか。では、二つ目を聞こう」

「明かりの無い暗闇にいる場合と、私の周囲が猫族だけの場合に、目隠しを外す許可を下さい。四六時中これでは目が悪くなってしまいます」

「……良かろう。許可する」

「感謝します。では」

「幽谷……!」


 布を目に当て、指で押さえつつ後ろへ両手を移動させ、結ぶ。
 真っ暗だ。
 反射的に周囲の様子を把握しようと意識が研ぎ澄まされる。何か、暗器を持ちたくなった。

 ……これは思った以上に困るかもしれないわ。


「幽谷、大丈夫そう? 無理なら外して良いのよ?」

「申し訳ありませんが、やはり包帯か何かで片目だけ隠すという訳には――――」

「ふざけるな! 四凶の分際で、我が儘(わがまま)が許されると思うのか?」


 何故そこであなたが答えるの。


「あなたに訊ねた覚えは毛先程もありませんが……そうですね。では、出来うる限り我慢いたします。その代わり、本当に後ろに立たないで下さいまし」

「ああ、兵達にはそのように通達しておこう。ではな」


 曹操の用事はそれだけのようで、彼は自身の野営へ戻っていく。
 彼と、小さく舌打ちした夏候惇の気配と足音が次第に遠ざかっていった。


「本当に良かったの?」

「仕方がないわ。四凶までいると体裁が悪いのでしょう。戦では軍をまとめ上げる将軍の心証によって、功から遠ざかることもあるから。それで満足の行く働きが出来なければ、猫族とて危うい。――――ところで関羽、私はこのまま振り返って歩いても大丈夫かしら」

「え、あっ、ちょっと待って。さっきあなたが置いた鍋があるわ……って、取らないの?」

「ええ、慣れようかと」


 さしもの幽谷でも、不慣れな状態で討伐軍に合流するのは止めておきたい。少しだけでも早く、この感覚に慣れてたかった。

 「それくらいならもっと嫌がれば良かったのに」そうぼやきながら、関羽が鍋を持ち上げる。


「はい、もう大丈夫よ。これはわたしが洗ってくるわ」

「ごめんなさい、手伝うつもりだったのに」

「良いのよ。心配だから世平おじさんのところまで――――あら?」

「何?」

「劉備だわ」


 劉備なら、確か世平や蘇双達と一緒にいた筈。関羽に構ってほしくて抜け出してきたのだろうか。


「関羽ーっ! 幽谷ーっ!」


 この声、確かに劉備だ。
 いつもなら関羽に抱きつくのだが、彼女が鍋などを抱えていたからか、幽谷に抱きついた。気配で分かっていたが、少し、驚いてしまった。


「……? 幽谷、どうして目をかくしてるの?」

「曹操殿に頼まれたのです。四凶の証である色違いの両目を隠せと。今は、それに慣れようと練習しているのでございます」


 何度かしくじって、劉備の頭を撫でると、彼はぼそりと呟いた。


「幽谷の目、綺麗なのに……」

「この幽谷には勿体ないお言葉です」

「……じゃあ、ぼくが手繋いであげる!」


 言うや否や、劉備の幽谷の右手をぎゅっと握る。


「手繋いで、ぼくがつれてってあげる!」

「劉備様が、ですか……?」

「ふふ……なら、世平おじさんのところに連れて行ってくれる?」

「わかった! 幽谷、行こー!」


 幽谷の手の中にある小さな手。視覚を閉ざされている所為か、肌はその優しい温もりをいつも以上にはっきりと感じられた。


「……かしこまりました。よろしくお願いいたしますね」

「うん、まかせてー!」


 幽谷は口元を綻ばせ、彼の手を握り返した。



○●○
 本編に入れるべきかどうか考えましたが、取り敢えず番外編としてupすることに。



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