幽谷と世平時々蘇双





 劉備と関羽の傷を癒した幽谷は、半ば無理矢理世平に連れ出された。
 勿論、彼女の腕の治療の為である。
 幽谷は問題は無いとの一点張りだったけれども、世平は決して許さなかった。泥が付着している以上、放置すれば破傷風の危険も高まる。

 いやも応も無く幽谷を居間の隅に座らせ、ぱりぱりに乾いた袖を捲り上げる。一瞬、幽谷の仮面のような顔がひきつった。痛覚があるのだと、世平の胸に微かな安堵がよぎった。


「……本当に、必要は無いのですが」

「良いからお前は黙って治療をされていろ」


 幽谷は困惑したように瞳を揺らし、眉間に皺を寄せた。その、人間らしい表情に、世平は苦々しく笑いかけた。
 四凶だから、か。
 恐らくはそれ故に治療を拒むのだろう。
 四凶であるから人間らしいことは望めない。ただただ排他されるだけの存在――――そんな固定観念を植え付けられて、彼女はこの年まで暗殺の道具として育てられたのだ。
 四凶として生まれたのでなければ、きっと見目麗しい娘として、誰かのもとに嫁いでいただろうに、まこと口惜しいことだ。


「まずは泥を落とさねえとな。ここで大人しく待ってろ。良いな」

「……はい」


 幽谷が頷くのを視認し、世平は一旦外に出る。
 井戸から水を汲み上げ戻ってくる――――たったそれだけだ。時間はさほどかかっていない。

――――だのに。

 家に戻った彼は、驚いて薄く口を開いた。


「……幽谷?」

「あの……」


 どうしたら、よろしいのでしょうか。
 腰に巻き付く人物の背中に手を置き、首を傾けて彼女は世平に助けを求めた。



‡‡‡




 幽谷の腰にしっかりと抱きつくのは劉備だ。疲れ果てて関羽と共に彼女の私室で眠っていた筈だのに、何があったのかここまで出ていた。
 どうするべきなのか分からず、劉備と世平を交互に見る幽谷に、世平は顎を撫でた。

 寝ぼけてこちらに来てしまったのかもしれないが、劉備が関羽の側を離れるのは大変珍しい。劉備は関羽のことが大好きで、いつもいつも一緒にいたのに。
 幽谷のことを気に入っているにしても、寝ぼけた状態でくっついてしまう程だったとは意外である。

 がっちりとしがみつく劉備は取り敢えずそのままにしておいて――――幽谷の拘束にもなるのだ――――世平は手拭いを水に浸した。絞って幽谷の腕の泥を拭い落とす。小さく、幽谷の口から押し殺した声が漏れた。


「……関羽や劉備様を助けてくれたことは感謝してる」

「勿体ないお言葉です」

「だがな、関羽に従ってくれると言うのなら自分の身体を、もう少し大事にしてくれ。自分を助ける為にお前が怪我をしたと知れば、関羽が悲しむ」

「……悲しむ必要などは無いかと存じますが」


 身体に染み着いた価値観は、そう簡単には塗り替えられない。
 まるで血のようだ。一度衣服に染み込んだ血は、何度洗っても落ちはしない。呪いのように永久に残って存在を訴える。まるで、しがらみだ。

 己のことでもないのに、悲痛に顔を歪めて四凶を憐れむ世平に幽谷は首を傾げるしか無い。


「世平様?」

「……いや、何でもねぇ」


 世平は以降口を閉ざし、怪我の手当に専念した。



‡‡‡




 幽谷は治療が終わった後、劉備を関羽の私室に寝かせて家を出た。世平に黙って、だ。

 一人井戸の縁に腰掛けて己の両手を見下ろす。

 猫族の中は、温かい。
 温かすぎて正直居づらい面もある。
 関羽も、劉備も、自分を人間として扱う。
 凶兆の証を、綺麗などと平然と言ってのけてしまう。

 一緒に人になろうと、関羽は言った。
 けれども自分が人になれた姿が想像もつかない。
 殺す対象でしかなく、自分とは隔絶された枠組みの中に在ったそれに、どう近付いて行けば良いと言うのか。

 本当に、人になれるのか。なることが正しいのか。
 ……分からない。
 幽谷は拳を作って解くを繰り返した。

 肉体の構造は人間の女そのものだ。
 内臓は勿論女性の性器も存在するし排泄もする。汗も掻くし髪も伸びる。
 能力を除外し肉体だけを見るならば、同年代の女性と何ら変わらない。
 だからこそ標的に身体を開き情交のさなかに殺すこともよくやった。この方法は成功率が非常に高かった。

 だが、能力は人外の領域に在る。
 四凶として備わった力は、自分でも異常であると分かる。

 四凶は、化け物。
 四凶は芥(ごみ)なのだ。
 かつて、幽谷の世話係が彼女に言い聞かせていた科白が脳裏に蘇った。

 人になって良いのか。
 凶兆として全てをうけいれ生きれば良いのか。

 分からない。
 両手で顔を覆って長々と嘆息する。

 と、


「……何してるのさ」


 前方に、誰かが立った。

 顔を上げた幽谷は目を細め、立ち上がる。拱手(きょうしゅ)した。

 相手は蘇双だった。
 時間を考えればもう夕食時。井戸の水を汲みに来たのかも知れない。
 脇に退いて頭を下げた。


「失礼致しました」

「……何してるのかって、訊いたんだけど」


 蘇双は呆れたように片目を眇めて幽谷の前に立った。


「劉備様と関羽、見つかったらしいね」

「はい。今は、お二人共関羽様の私室にてお休みになっておいでです」

「君も怪我をしたって」

「大したことはありません。すぐに癒えます故に」


 蘇双の顔が不快げに歪む。

 自分の言葉で気分を害したのかもしれない。
 そう思って、幽谷は拱手して蘇双の前を立ち去った。

 後ろで、蘇双が大仰に吐息を漏らしているとも知らずに――――……。



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