幽谷と関羽と世平と張飛と劉備





――――劉備が消えた。
 日が暮れた頃になって、村は俄(にわか)に騒ぎ始めた。
 昼、関羽と共に花畑に出かけていった筈だけれど、関羽共々行方不明になってしまったのだ。

 空が濃紺に染められた時間になるまで誰も気付かなかったのは、偏(ひとえ)に彼らが花畑に行っていると知っていたのが世平のみであったからだろう。
 二人が出かける時、幽谷は動物達を言い聞かせていた。蘇双もその場にいた。

 劉備と関羽の行方を張飛に訊ねられた直後、幽谷は血相を変えて村を飛び出した。周辺でその様子を見ていた猫族達は勿論酷く驚いた。刺されても動じなかった幽谷が、関羽と劉備が行方不明になったそれだけで表情を変えたのだ。人間のように、焦燥が色濃く浮かび上がった顔へと。
 関羽へ絶対の忠誠心を抱く――――果たして幽谷のその言葉に嘘はあったのか。そんな疑念を、彼らは一様に抱いたことだろう。

 張飛も世平も、すぐに彼女を追いかけた。
 濃密な闇に呑み込まれつつある森に入ってすぐ、幽谷は動物を呼びつけ、指示を飛ばしていた。動物と意志疎通が出来るとは知らぬ張飛達はその光景に面食らい、幽谷が駆け出したのに即座には反応出来なかった。

 世平達が追いかけてきていることに気付いているだろうに、幽谷は徐々に二人との距離を伸ばしていく。関羽達に危険が及んでいるかもしれないと思うと、周囲に気を配っていられないのだ。
 それだけ、幽谷にとって関羽への忠誠心が大事であるということ。


「おっちゃん、幽谷見えなくなっちまった!」

「喋ってる暇があるなら足を動かさねえか! 幽谷が本気になったら俺達じゃ敵わねえくらい最初から分かってたことだろうが!」


 世平は舌打ちして張飛を怒鳴る。
 そうしている間にも、幽谷の姿は闇の中に全て呑み込まれてしまった。闇に呑まれた以上、一気に引き離されてしまうだろう。
――――と、不意に狼の遠吠えが聞こえた。近い。
 もしかすると見つけたという報せなのかもしれない。
 世平は張飛を呼び、遠吠えの方角を目指した。幸い、何度も何度も聞こえるそ遠吠えは、幽谷があの二人を見つけるまで続くのだろう。

 濃密な闇は徐々に深さを増していく。
 こんな中、劉備は心細くしていないだろうか。
 関羽は彼の側にいるのだろうか。
 二人は、今無事なのだろうか――――。

 闇の所為だ。
 この闇が、いやが上にも思考を悪い方向へと持って行ってしまう。
 希望や信頼すらも黒に塗り潰されていくような、そんな錯覚すら覚えてしまう。

 闇の中は四凶――――否、兇手(きょうしゅ)たる幽谷にとっては庭のようなものだ、自分などよりももっとしっかりとした意識を持って、方角を見誤ること無く、木の根に足を取られること無く捜索していることだろう。
 彼女は人間の汚れた部分だけを見てきた。
 欲望、嫉妬、憎悪……それらは人間らしい部分ではあれど、決して表には出されない。蓋をされ、大事に守られている。
 それが、きっと彼女の前では全てが裸になって曝されているのだろう。兇手は、その発散させる道具でもある。

 だからこそ、彼女は他人との付き合い方が分からないのだ。
 そんな彼女にとって、この闇は村よりも慣れ親しんだ世界に違い無い。

 生まれや育ちから、闇での生活を余技無くされた娘。

 それを思えば、彼女を不気味だとは思わない。むしろ、憐憫すら抱く。
 劉備は幽谷の目を綺麗だと言って譲らない。四凶が如何なる存在かを知っても、未だ幽谷は優しいと豪語し、惜しみ無い、純粋な信頼を向ける。
 彼にとっては幽谷が卑しいなどは関係ないのだ。自分に優しく、綺麗な目をしている人、それだけの認識しか無い。否、きっとそれで十分なのだ。単純明快だが、自分達には到底真似出来ない。

 幽谷は、それに未だ戸惑いを覚えていた。他人からの好意に慣れていないのだとは、見ていてよく分かった。暗殺一家での彼女の扱いが、ほんの少しだけ窺える。

 だが、誰かを大事にする、という感情は彼女にもしっかりと存在していたようで、今、こうして報せを受けて真っ先に感情と行動を周囲に示した。

 この件で、何か変わるのだろうか。


「――――あ、おっちゃん、あそこ!」


 張飛が声を張り上げた。
 闇の中にぼんやりと浮かび上がったのは幽谷の後ろ姿だ。側には闇に溶け込んで辛うじて顔を見せている狼が一頭座っている。

 彼女は穴のような場所に右手と上体を潜り込ませていた。焦った声が「早く」「捕まって下さい」と早口に言っている。
 その先に関羽達がいるのだろう。

 世平達が駆け寄ろうとすると、幽谷が声を張り上げた。


「来るなっ!!」

「っ!?」


 幽谷は身を起こすと小さく呻いて、支えにしていた左手も下に伸ばして大きな塊を引き上げた。
 それは幽谷よりも太く、よくよく見てみると少年と娘が抱き締め合っているのが分かった。
 言うまでもなく、劉備と関羽だ。


「劉備様、関羽!」


 全身に痣が目立つ関羽は意識はあるが弱っている。
 彼女の腕の中にいる劉備はこめかみの上辺りをぶつけてしまったようで、べったりと黒く汚れていた。闇の所為で色までは分からないが、恐らくは純白は赤に染まっているだろう。

 泥だらけの二人の有様に、幽谷はしかしほうと安堵の声を漏らした。
 それから劉備の頭へと右手を伸ばし、柔らかな光を放つ。
 光は劉備の頭を包んだ。

 張飛が気色ばんで止めさせようとするが、関羽が止めた。癒しているのだと、切れ切れな声で伝えた。

 光に照らされたのは劉備の頭だけではない。光を放つ彼女の右腕もまた照らされ――――引き裂かれた袖に染み込んだ、泥と混じった血が浮かび上がる。


「幽谷、それは」

「先程、突き出た岩で裂いたようです。気付かずに入れてしまいましたら、尖っていて」


 腕を見る為に掴もうとすると、その腕をさっと引いて「それよりも」と関羽と劉備を交互に見やった。


「早くお二人の治療をしなければなりませぬ」


 涼しい声に、世平は知らず嘆息を漏らした。



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