幽谷と蘇双





 蘇双には一つだけ疑問があった。


 野生の動物である。


 幽谷が猫族の男に刺された時、誰も気が付いていなかったのだけれど、二羽の烏が攻撃態勢に入っていたのだ。殺気立って狙いを付けていたのは猫族の男。まるで、幽谷を傷つけたその報復の機会を窺っているようだった。
 けれどほんの一瞬幽谷がキツい眼差しを送った途端にそれが失せてしまったのだ。
 敵と見なして猫族の男に襲いかかろうとしていた野生動物を、幽谷が目線で止めたのだった。

 彼女は刺されてなお、謝罪したばかりかあの時彼を守っていた。

 何故烏達は幽谷を守ろうとしていたのか。
 四凶は凶兆、禍(まが)の存在だ。
 野生動物達が彼女を守ろうとするような身ではなかろうに――――。

 よもや、動物達にとっては違うのか?
 異形の子供を四凶と言い出したのは、時代は分からぬが恐らくは人だ。汚らわしい凶兆であると、世の理を汚す存在であるのだと当たり前のように認識してきた自分達と、野生の動物達には何か認識の違いがあるというのだろうか。

 だが、動物は自分達と違って言葉を発せない。幽谷が彼らにとってどういった存在なのか確かめる術は無い。
 実はあの烏達が幽谷に何かしらの恩があって、それを覚えているだけというオチも有り得る。
 烏は賢い鳥だ。攻撃された相手の顔をずっと覚えているし、周囲の烏と共に攻撃する。恩義を受ければその相手を味方と見なし、その存在に攻撃を仕掛けないということも、可能性は限り無く低いだろうが、なきにしもあらずなのだ。

 その事実だけでも確かめようと、蘇双は幽谷を影で観察していた。
 先日鷹の巣をわざわざ危険を冒して助け上げた幽谷は、鷹に異様に懐かれ側を離れていなかった。時折姿を消すのは子供達の様子を見に行く為、餌を与えに行くつもりなのだろう。大きさが違うことから、夫婦で交互に幽谷のもとを訪れているようだった。

 幽谷が懐かれるのは、鳥だけに限らなかった。
 兎や鼠、狼や虎までも、幽谷がただ森を歩いているだけで寄ってくる。まるで自分の主であるかのように、自分の友であるかのように、すり寄ったり木の実を分け与えたりする。その上彼女の周りでは弱肉強食の理は存在しない。野生動物として有り得ない光景だった。
 蘇双は物影に潜みながら、幽谷の様子を窺い続けた。

 そこで、唐突な驚きが蘇双を襲う。


――――幽谷が、笑ったのだ。


 彼女が笑うとは、劉備に聞いていた。とても綺麗に笑うのだと、幼いながらに絶賛されていた。
 猫族の長である劉備を疑うつもりはないけれども、そればかりはとても信じられなかった。
 されど今、蘇双の目の前で彼女は笑っている。和やかに、美しく。それは凛々しくも水面に咲く蓮の花を思わせる程に清廉としたものだ。四凶などと、汚れた存在などとは思わせない。その言葉こそが何かの間違いなのではないかと錯覚する。
 純粋に、ただただ驚いた。

 いつもいつも仮面を付けているかのような、冷たい刃を思わせる不気味な無表情。
 それが蘇双の知る幽谷の姿だ。見目は良いが、異質な瞳に感情を宿さない鉄の顔が人間としての生を全く感じさせなかった。
 無機質な女、まさにそれだった。

 蘇双はじっと彼女を観察し続ける。次第に、人間らしい姿がまた見れるのではないのかと、仄かな期待が芽生えていた。

 ……だが、幽谷の顔から笑みが剥がれ落ちた瞬間、彼女の色違いの双眸がこちらを捉えたのだ。戸惑うように揺れたような気がする。


「先程から私の後を尾行されておられるようですが、何かご用でも?」


 ……バレていた。
 蘇双は大人しく物影から姿を現した。狼や虎がこちらを威嚇していたからだ。


「用は無いよ。ただ……刺された時、烏達を牽制していたのが気になってただけ。四凶を守ろうとしていたように見えたからね」

「さようでございますか」


 抑揚の無い平坦な声音に、ほんの少しだけ落胆する。

 幽谷が背中を撫でてやれば、狼と虎は途端にうっとりと目を細めて敵意を引っ込めた。それでも警戒するように鋭い視線を蘇双へ向けてくる。怪しい動きがあればすぐにでも咽を引き裂いてやるぞ、そう言われているようで背筋がぞっとする。

 幽谷は深々と頭を下げた。


「……申し訳ありません。あの時のことを烏達が彼らに教えていたようです。害を加えぬようにキツく言っておりますので、どうかお気になさらず」


 威嚇はしてるけどね。
 彼女の言葉を聞いている側で脅しを受ける蘇双は、顔を逸らしながら一歩だけ後退した。


「動物には、懐かれるの?」

「はい。昔からよく動物が寄ってきてはこのような状態に。理由は存じませぬが……」


 彼女にも分からないとなると、本当に謎になってしまう。
 言葉は分かるのかと問えば、分かるけれど、その部分は皆一様に濁してしまうのだそうだ。
 すり寄ってきた兎を抱え上げ、丸い背中を撫でた。すると兎は鼻をふごふごと動かしながら心地よさそうに目を細めた。

 動物達が曖昧にしていると聞くと、謎は一層深まっていくような、何か大事なことがそこに隠れているかのような気がする。

 されども蘇双が動物達を見つめても、五月蠅そうな顔をされるだけだ。

 蘇双は幽谷の様子を見つめ、その話題を諦めた。もうその話題を幾らつついても答えは出そうにない。


「それで、その動物達は村まで連れてはこないよね」

「ああ、はい。それは勿論です」


 蘇双の確認に幽谷は大きく頷く。

 蘇双はそれに淡泊に返してきびすを返した。
 自分が姿を現した以上は、きっともうあの笑顔を見せることは無いだろう。尾行がバレていたのだったら、先程見せたのは本当にたまたまだったのだろう。

 何処か惜しい気もしたが、蘇双はそれすぐに無いものとした。
 どうして四凶にそのような感情を抱く必要があろうか。
 彼女は排他されるべき存在に他ならない。

 災いを持ち込むだけの存在なのだと、蘇双は己に言い聞かせるのだった。



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