幽谷と世平
木刀のぶつかり合う鈍い音がする。
村から少しばかり離れた場所に、猫族の鍛錬場がある。音はそちらからしていた。
対峙するのは男女――――張世平と幽谷。互いに互いを動作の間隙無く睨み、木刀を構える。
もはや鍛錬と言って良いものか、分からなくなってしまっていた。
しかしふと、世平が木刀を下ろした。
幽谷も倣(なら)う。
「そろそろ終わりにしよう。どれくらいやっていたか分からんが、もう十分だろう」
「はい。鍛錬にお付き合いいただき、ありがとうございます」
幽谷は深々と頭を下げた。
世平は笑って「構わんさ」と。
されどすぐに真顔になって、
「しかし、お前は何故いつも本気を出さない?」
問うた。
いくら鍛錬とは言え、彼女は本気を出さない。本来の力がいかほどであるのかは分からないが、あのようであっても手を抜いていることは世平には一目瞭然であった。
それに、幽谷は悩むように唇を曲げ、暫し思案した。
「……私は、関羽様にお仕えすると決めました。武人でもある関羽様よりも強く見せたくはないのです。関羽様はお人柄や太刀筋なども素晴らしいお方。それが私如きで霞んでしまうのは、あってはならぬことかと……」
「…………いや、そういう心配は要らんと思うぞ」
関羽に仕えると彼女が唐突に言い出してより、周りと接するようになったが、どうも彼女は思考がズレている。
暗殺しか知らなかったという今までを考えれば、それも仕方がないのかもしれないが。
世平は、その感覚を正すべく、彼女と話すことが多かった。関羽に頼まれたのだ。
幽谷も世平には慣れてきたようで、こうして自ら鍛錬に誘ってくるようになっている。
「幽谷。部下だからこそ、主を守る為に全力を出すんだ。主人がどうのこうの言って力を出し惜しみしていたら、守れるもんも守れなくなっちまう」
「……そういう、ものなのですか?」
「少なくとも俺はそう思ってる」
幽谷は沈黙した。己の手を見下ろして、また何かを思案しているようだ。
やがて俯いていた顔を上げると、
「しかしそれでも、私は全ての力を出してはならないと存じます」
「何故だ」
「私の全力は、一瞬のうちに容易(たやす)く人を何千万も殺めます。皆様の為にも、そのような力は、あまり出さぬようにした方がよろしいかと」
「……」
その他人事のように淡々とした口調に嘘は無い。
そのような力があるのは、彼女が四凶だからだろうか。
だとすれば幽谷が猫族の村に住み着いたのは幸いかもしれない。人間の戦乱の世に彼女が出れば、全ての雄が欲することは間違いないのだから。更に更に、世の中は血生臭くなるに違いない。
それに幽谷が人間の欲に振り回されるのは、世平としても忌避すべきものだった。
「……そうか」
「申し訳ございません」
「いや、本気を出さない理由が分かれば良い。もし若いもんに、今みたいに訊かれた時は、俺に訊けと答えておけ。適当に誤魔化しておく。猫族に馴染んじゃいない今は、なるべく伏せておいた方が良いだろうからな」
「ありがとうございます、世平様」
再び頭を下げる幽谷の言に、世平は首筋が痒くなってさすった。
幽谷は関羽を主と仰いでいる。その為か関羽と対等の、猫族の者には全て様付けをし、敬った態度を取っていた。
世平はそれがむず痒くて仕方がないのだが、止めろと言っても嫌ですの一点張りだ。
今では言う前に話を逸らされてしまう。
自分を人だと思わせる為という関連性が分からない理由で、関羽に従うことにした以上、何が何でも止めるつもりはないらしい。幽谷は、頑固なのだった。
世平は唇を曲げ片眉を上げた。
「……何か?」
「いいや、何でもない。それより、鍛錬の後は劉備様と花を摘みに行くんだろう。早く行ってやれ」
「はい。それでは失礼します。……あ、木刀は私が、」
「いや、俺が片付けておく。貸せ」
世平に木刀を手渡し、再び礼を行ってから幽谷は村へと戻っていった。
しかしふと、足を止め視線を下げる。
その先には、小さな赤い花が咲いていた。風にゆらゆらと揺れている。
「どうかしたのか?」
「……この花の赤は、血とは違う色をしているのですね」
私の片目は血のような赤なのに。
ぽつりと呟いて屈み込んでそっと触れる。
何てことはない花。
だが幽谷にとっては真新しい新鮮なものなのだろう。
「世平様」
「何だ?」
「同じ色でも違うのですね」
幽谷は茎を掴み、ぷつりとその赤い花を摘んだ。
「関羽にやるのか?」
「はい」
彼女は世平に頭を下げて、くるりときびすを返した。
その背中を見送りつつ、世平は顎を撫でる。
幽谷は容姿が人と違い、感覚がズレているだけだ。
他は人と何ら変わらない。
四凶だの災いだの何だのと騒いでいるのが、本当にそうなのかと疑わしく思えてくる程。
村に何か悪いことが起こる気配も全く無い。
「……」
不思議なものだ。
背中だけを見れば、ただの妙齢の女性であるのに。
世平は肩をすくめ、彼もまたその場を立ち去るのだった。
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