幽谷と関羽と夏侯惇と曹操





 曹操に呼び出され、何をするかと思えば――――碁。

 沛国礁県では結局馬の様子を診た後、曹操が多忙になって有耶無耶になっていたのだが、思い出したように曹操が夏侯惇との碁を強要してきた。

 勿論幽谷は強く拒絶した。このような状況で、冗談ではない。
 されど関羽がまったき善意で勧めてきては、嫌とは言えなくなってしまった。

 幽谷は関羽に連れられて曹操に指定された広間へと向かう。

 夏侯惇は先に来ていたらしい、嫌そうに、苛立たしそうに眦をつり上げて――――ああ、元からつり上がっているんだったと直後に思い直す――――幽谷達を睨んできた。

 苛立たしいのは、こちらとて同じである。


「どうしてたかだか碁でこんなことに……しなくて良いでしょうに」


 碁盤の前に座らされて、幽谷は溜息をついた。曹操の気紛れに付き合いたくなどないのに……というか、自分と互角だった四凶の碁がそんなに珍しいのか。
 辟易していると、夏侯惇もまた、小さく吐息を漏らした。


「……そんなに嫌なら拒絶なされば良かったでしょうに」


 小声で言うと、キツく睨まれた。同じく小声で反論される。


「馬鹿を言え。曹操様からのご命令だ。逆らえる筈もなかろう。貴様こそ、何故拒絶しなかった」

「馬鹿ですか。関羽様に気遣われて勧められたら断れないでしょう。あなたはこんな些末なことでも主に逆らう勇気すら無いのですか、情け無い」

「ば……っ! 貴様こそ十三支の女に意見すら出来ぬのか!」


 小声だったのも最初だけだ。

 声を荒げる夏侯惇に冷眼を向ける幽谷は今、機嫌が悪い。その為その紅唇の隙間から発せられる言の葉は、こと辛辣だった。夏侯惇の神経を逆撫でするが、幽谷がそれを気にすることなど一切無かった。むしろ――――。


「残念ながら、意見すべき時はしているつもりです。あなたとは違って。今回は、関羽様のお心遣いを拒絶するのは失礼と判断したまでです。そちらの主とは違って気紛れに他人を無理矢理付き合わせることは全くございませんので。ええ、そちらの主とは全く違って」


 早口にまくし立てるように夏侯惇に棘を刺す。勿論、小声で。

 夏侯惇は歯軋りし、剣の柄に手をやった。

 それに、関羽が慌て出す。彼女には幽谷が何かを言ったのかまでは聞こえていないので、幽谷を咎めず庇うように間に入り込んだ。


「か、夏侯惇! 何だか分からないけれど、落ち着いて! 幽谷、何を話してたの?」

「ただの世間話です。世間話でも彼は四凶と話をするのはお嫌いなようで、これでは碁をするにも無理がございましょう」


 関羽を右にずらし、笑顔でさらりと嘘をつく幽谷に、彼女はひくりと口角をひきつらせた。
 彼女もまた、曹操の申し出に幽谷が乗り気でないことを今更ながらに漠然と察し始めている。……止めた方が良かったかも知れないと、少しだけ後悔している。


「あ、あのね、幽谷……」

「関羽様は、私のことを思って勧めて下さったのですから。どうかお気になさらないで下さい。そのお心遣いは、とても嬉しく思っています」


 ただ、曹操が悪い。
 いきなり人の部屋に入ってきたかと思えば『夏侯惇と今から碁を打て』の一言だったのだ。これで快く了承するものなど、いやしない。まして幽谷が警戒すべき、関羽を付け狙う曹操なのだから、不機嫌になりもする。

 幽谷は傲然と椅子に座って彼らのやり取りをおかしそうに眺めている根源を一瞥した。
 目が合うと、


「何をしている。さっさと打て」

「……刺しても」

「駄目!」


 自分は曹操の部下ではないのに、何故彼の気紛れに付き合わされ斯様(かよう)に命令されなければならないのか。
 思わず匕首を握りかけたところを関羽がその腕を掴んで止めた。

 幽谷は深々と嘆息した。


「……一局だけです。それ以上は致しません」

「ああ。構わぬ」

「それと、私は関羽様に仕えているのであって、あなたに仕えているのではありません」

「知っている」

「……」


 ひくりと、こめかみが震えた。



‡‡‡




――――早々に終わらせてやった。

 この一局は幽谷が勝った。
 勿論手は抜いてはいない。ただ曹操の時とは違った攻め方だが世平に似た部分があったので、曹操よりは幾らかは攻略しやすかったのだ。

 碁は終わったからと帰ろうと腰を上げると、そこで夏侯惇が待ったをかけた。……嫌な予感がする。


「……何ですか」

「もう一回だ」

「丁重にお断りします」


 まさか、まだ、彼は幽谷を越えようとしているのだろうか。
 幽谷はうんざりして半眼になり、大仰に吐息を吐き出した。

 そこへ曹操が、


「四凶に負けたことに納得がいかぬか?」


 と。

 夏侯惇は彼から視線を逸らし、やおら頷いた。

 曹操が鼻を鳴らす。

 それで、まさかもう一局やれと言い出さないだろうか。
 勘弁して欲しい。


「だから、人間が四凶に勝てる筈が……」

「貴様は黙っていろ!」


 ……いい加減、割り切ってしまえば良いのに。
 幽谷は片目を眇めた。

 どうして彼がこんなに強さにこだわるのか、甚だ疑問である。曹操の腹心として相応しい武力を身に付けたいとは洛陽で聞いたが、それでも四凶を越える必要など無い。
 人は人としての枠を越えられないし、それは他の動物にも言えることだ。

 そこまで欲張っても、無理だろうに。


「……曹操殿。私達はこれにて」

「なっ」


 強引に話を終わらせて、幽谷は曹操に頭を下げた。

 すると、夏侯惇にあのような問いをかけた割には、曹操はあっさりとそれに応じ、片手を顔の辺りまで上げた。


「ああ。礼を言うぞ」

「要りません。関羽様、参りましょう」

「え、ええ」


 関羽が駆け寄ってくるのを確認し、幽谷は広間を後にする。夏侯惇が待ったをかけたが、黙殺した。



 この後、広間に残された二人がどうなったかなどとは知らない。知りたくもない。



○●○

 碁ネタをここまで引きずってみました。

 さすがにこの状況で夢主が要求に応じられる訳も無く。

 というか夢主、兌州では不機嫌になりっぱなしですね。
 まあ、関羽が心配なのと曹操に対して警戒を強めているので。あとは泉沈の思考回路。



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