幽谷と呂布


※もしも猫族の村に辿り着く前に呂布に捕まっていたら。



 薄暗く、湿った牢獄。
 その中に幽谷は手足を拘束され幽閉されていた。
 凶兆の証たる色違いの双眸に光は無い。澱んだそれは、見えているのかも分からなかった。

 彼女がここに囚われたのは僅か五日前のこと。
 追っ手はしつこく迫り、疲労に鈍った幽谷に毒矢を刺して、弱ったところを命じた者のもとへと連れて行った。

 薬漬けにされ、幻覚や幻聴に襲われてなお、幽谷の精神は完全には壊れていなかった。薬を求めてしまったら終わりだと、理性がはっきりしているのだった。


『死ね』

『出来損ない』

『お前に生きる価値は無い』

『どうせ、勝てないのだから』



 また、この幻聴。
 男性だったり女性だったり,元であったり頭上であったり、喧(かまびす)しい。
 そして彼女の視界――――床には無数の百足が群をなして幽谷の足を這い上がってくる。

 違う。
 これは幻覚だ。幻聴だ。
 まやかしなのだ。
 だから、気味悪がる必要は無い。恐れる必要など無い。

 精神を狂(たぶ)らせれば、《あの女》の思う壺だ。

 何度も何度も自分に言い聞かせ、冷静さを保つ。


『どうせ役目を果たせはしない』

『ここで自害した方が身の為だ』

『私達は、誰かの道具ではないもの』



 五月蠅い。
 五月蠅い五月蠅い五月蠅い。
 耳を傾けるな。傾けたって意味が分からないのだから、無駄だ。
 自我を保つことだけを考えろ。

 いつか、いつか、きっとここから出る隙が見つかる筈だから。
 それを見つける為に、自我だけは、無くしてはならない。
 《あの女》だけには、弄(もてあそ)ばれたくはない。
 そう、強く思う。

 身動げばじゃらりと鎖が擦れて音を立てた。この場所の音と言ったら、自分の息遣いか幻聴か、それくらいだ。

 百足の幻覚がぐにゃりと歪んで消えたことに安堵したその時、耳障りな音を立てて鉄の扉が開かれた。


「饕餮ちゃん」


 艶めかしい、美しい声だった。聞き惚れる者は多いだろうそれに、しかし幽谷は強い憤りを覚えた。
 彼女が、自分をここに閉じ込めたのだ。

 呂布。
 これが彼女の名前である。

 幽谷は顔を上げようとせずに、唇を引き結んで彼女の呼びかけにも答えない。


「今日も、朝御飯を食べていないと聞きました。いけませんわ、饕餮ちゃんったら少々肉付きがよろしくないようですから、もっともっと食べて綺麗になっていただかないと」


 違う。
 彼女はそんな心配をしているのではない。

 幽谷が薬に溺れたか、それを確かめに来ているのだ。
 溺れて薬を求めれば、きっと自分は彼女のどんな要望にも応えようとするだろう。薬を得る為に。それだけは、絶対に嫌だ。

 呂布の靴の先が視界に映り込んだ。かと思えば、今度は膝だ。
 白く細い手が伸びて幽谷の頬を包み、無理矢理顔を上げさせた。紫の瞳と視線が絡み合う。

 呂布は残念そうに眦を下げた。


「饕餮ちゃん。まだ薬に溺れては下さらないのね」

「……だ、れが……!」

「あんまり強情だと、死んでしまいますわよ。まあ、死体でも可愛がって差し上げますけれど」


 くすりと笑って呂布は幽谷に顔を近付ける。

 幽谷はそれを避け顔を逸らした。
 彼女が自分に何をするつもりか――――想像するだに恐ろしい。
 気持ち悪い。
 流し目に蔑視すると、呂布はそれすらも面白がる。笑声が、紅唇から漏れ冷えきった空気を震わせた。


「本当に、わたくしを焦らすのがお上手ですこと」


 そう言って、彼女は幽谷の耳朶を噛んだ。薬で常時高ぶった幽谷はびくりと身体を震わせて身動ぎした。気持ち悪い、気持ち悪い。


「あらあら……なんて可愛らしいんでしょう」

「……っ消えろ!」


 屈辱に耐えかねて怒鳴っても、呂布はやはり笑うだけだ。
 悔しい。
 こんな化け物の良いようにされるなんて!

 呂布から漂う芳香ですら、異臭にしか思えない。
 触るな。触るな。
 気持ち悪い。

 ……いっそ、死んでしまおうか。
 死体を弄ばれるのは嫌だが、よくよく考えればすでに死んだ以上《精神(じぶん)》は関与しないことじゃないか。魂の抜け去った抜け殻で遊ばれるだけなのだから。
 そう考えて、幽谷は舌を歯に挟んだ。ぐっと力を込めようとした刹那――――。


「――――うっ!?」


 腹に、衝撃。
 内蔵が圧迫されたような感覚に幽谷は目を剥き身体を折った。


「いけませんわ。自ら死のうとするだなんて。舌を噛み千切ってしまったら勿体ないですわ」


 腹を見下ろせば、呂布の白くて細い腕が、自分の腹から伸びている。――――いや、彼女の拳が鳩尾に埋められているのだ。

 吐き気と共に、急激に意識が遠退いていく。

 駄目だ。
 意識を失ったら、駄目だ。

 この女に。


 何を、される、か。



 ワカラナイ――――……。



 最後に、呂布の耳障りな笑声が鼓膜を震わせた。



●○●

 もしものお話。
 暗いです。ホントに。
 この話の延長で張遼を書けたら……良いな!



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