幽谷と関羽
「お前の所為だ!!」
唾が飛ばんばかりの勢いに、幽谷はしかし無表情に直立不動だった。
代わりに、隣の関羽が狼狽して、幽谷に噛みつく猫族の男を必死に言葉を尽くして宥めていた。
事の発端は、彼の母親が亡くなったことだ。
老いによるものであったのだが、彼女が感情に乏しく、人としての常識にも欠けた幽谷にもまるで娘のように優しく接し、ままに家事などのやり方も教えていた。関羽も世平も知らなかったことであるのは、恐らく周りに迷惑をかけないように、彼女と会っていることをひた隠しにしていたが故のことだろう。
それが知れる運びになったのは、彼女が最期に幽谷を案じる言葉を残したからだった。そして、手ずから作った服を幽谷に渡して欲しいと息子夫婦に言い残している。
息子は母親が死んだことを幽谷の――――四凶と所為だと決めつけた。決めつけて、剣を持って幽谷に襲いかかってしまった。今は、それを後ろから羽交い締めにされて世平におさえられているが、血走った眼はどす黒い憎悪で澱み、幽谷を睨みつけている。
「お前が母さんと会ったから、死んじまったんだ!!」
周囲は皆、息子を憐れむような目で見つめ、幽谷に小声で非難がましく声をかける。無責任だ。彼女は何もしていないのに、勝手に決めつけて。
関羽は強い憤りを感じていたが、母親ととても仲の良かった息子の悲しみの程も察せられるので、宥める以外責め立てることも出来なかった。
「村から出て行け!! 凶兆なんて死んじまえば良いんだ!!」
「な……っちょっと! 言い過ぎよ!! 幽谷は何もしていないじゃない!!」
「関羽、落ち着け!」
「凶兆であること自体悪いだろう!? こいつの所為で、母さんの寿命は縮んだんだ!」
関羽は歯噛みし、男を睨みつける。
だが、幽谷は――――きびすを返して足早にその場を立ち去った。
「あっ、幽谷!」
「関羽。幽谷を追いかけろ。こっちは俺が」
「分かったわ!」
関羽は身を翻した。
‡‡‡
『あなたはこんなに綺麗な目をしているのに、どうしてみんな分からないのかしらねぇ』
よく、彼女はそう言っていた。
彼女はこの色違いの目を綺麗と言って、気に入っていた。
幽谷にはそれが不思議でならなかった。
何故この目を綺麗と言えるのか。これはまったき汚れた凶兆の証だ。綺麗であろう筈がないではないか。
関羽のように、彼女は幽谷に優しく接した。帰ろうとすれば、『また来てちょうだいね』と必ず言って、何故か、自分は毎回それに従ってしまうのだ。いけないことだとは分かっているのだが、どうしても足は彼女のもとに向かってしまう。
幽谷は彼女――――老婆との会話を思い出しながら、森の中を歩いていた。
宛も無く、適当に歩く。
蓬々(ほうほう)と生い茂った中を進み、不意に天を仰いだ。
頬に何かが落ちた。濡れている。水だ。
ややあって、また更に一つ、二つと顔にかかった。
……嗚呼、雨だ。
今日は朝からずっと曇っていたから、いつかは降るだろうと思っていた。
徐々に激しくなる雨は幽谷の身体を濡らした。それでも、幽谷はその場に佇み空を仰いだままだ。瞬き以外、動きもしない。
『笑うと、きっと男共は骨抜きにされるんじゃないかい?』
『幽谷が人らしくなれた時、私も生きていられりゃ良いんだろうけどねぇ……』
『やっぱり、老いには勝てないねぇ』
老婆は、己の死期を悟っていた。その上で、幽谷にあれこれと世話を焼いてくれたのだ。
四凶と接したから、死期を早めてしまったのだろうか。本当はもっと長かったのかも知れない。それを、自分が歪めてしまっていたのだとしたら――――。
拳を、握る。
胸が異様に苦しい。
死はこれまで何度も見てきたし、与えてきた。それでも在る筈のない感情が、彼女の胸を締め付ける。
これが、《心》を持つと言うこと。《心》を自分に戻すと言うこと。
自分は本当にこれで――――心を持って良いのだろうか。
胸中に浮かんだ疑問に対する答えは、彼女には出せなかった。
‡‡‡
「幽谷ー! 幽谷ー!」
森の中を歩きつつ、幽谷は声を張り上げた。
雨が降っているけれど、幽谷はまだ見つかっていない。一体、彼女は何処に行ってしまったのだろうか。
「まさか……村を出て行っちゃったんじゃ」
有り得そうだ。
彼女だってあの人が死んで不安定だったのに、追い打ちをかけるかのように心無い罵倒をされて、謂われの無い罪を擦り付けられて――――彼女が四凶だってことだけで。
辛くなっていなくなってしまう可能性は十分にある。
「幽谷!! 返事をして!!」
関羽はさっきよりも声を一層張り上げて幽谷を呼んだ。
すると、
「お呼びですか?」
「きゃあっ!!」
背後から声がした。
驚倒した関羽は悲鳴を上げてその場に倒れてしまった。ばくばくと脈打つ胸を押さえ後ろを振り返る。
赤と青の光が、戸惑うように揺れていた。
「あ、ああ……幽谷」
「……申し訳ありません」
「う、ううん。良いのよ。でも良かった、見つかって」
立ち上がって笑いかけると幽谷は頭を下げる。
関羽は彼女の手を取って元来た道を戻ろうと足を踏み出すけれど、幽谷は微動だにしなかった。
怪訝に思って振り向くと、幽谷は伏せ目がちに地面を見下ろし、唇を引き結んでいる。
「幽谷?」
「……いえ、何でもありません。戻るのですか?」
「ええ。濡れてしまったし、早く着替えないと」
「承知しました」
歩き出す彼女に関羽は眦を下げた。
「……村に戻るのが怖い?」
「いえ……そんなことは」
きっと、これから彼女に対する風当たりは更に悪化するだろう。
幽谷は何も悪くないのに……どうして皆分かってくれないんだろう。
彼女はほうと吐息を漏らした。
○●○
猫族の方々は四凶がいることに苛々してます。今回の話はその爆発でもあります。
世平がいますが、ほんの少しなのでNot複数。
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