幽谷と蘇双
幽谷という四凶に対して、猫族は辛辣である。彼女に親しげなのは関羽を筆頭に、劉備、張飛、世平だけ。
蘇双だって、早くこの村から消えて欲しいと思う。
だって四凶だ。禍々しい凶兆そのものがこの村にいることが嫌なのだ。
すでに彼女に怯えて子供達は近寄りたがらないばかりか、家から一歩も出ない子供だっている。
四凶による実害がはっきりと出ていた。
どうして関羽達はそんなに彼女に構うのか?
どうして関羽達は警戒なんてしないのか?
彼女は四凶だ。
汚らわしい四凶だ。
警戒して、追い出して然るべきだ。
蘇双は村の中を歩きながら、口からほうと吐息を漏らした。
彼は今、山で摘んだ山菜を手に家に帰っていた。
気分は暗鬱。理由は四凶。
山を降りようとしていたところ、山道でかち合ってしまったのだ。
四凶は蘇双の姿に驚いていたが即座に頭を下げて山道を上っていった。その時、片腕が動かなかったように思えたが、気の所為だろう。
本当に、嫌なものを見てしまった。
暗く重い気分を抱え、蘇双は歩く。
しかしふと、井戸に座り込んでうなだれている少年に気が付いて足を止めた。
少年の手には鍛錬に使う木刀がある。鍛錬場から持ち出してはいけない筈なのだが、どうしてここまで持ってきているのだろう。
「……その木刀」
どうしたの?
近付きながら問いかけると、少年はびくりと身体を震わせた。
「あ、そ、蘇双……」
「木刀は持ち出し禁止だっただろ」
「……う、うん」
ばつが悪そうに顔を背け、口を引き結ぶ。
ややあって、
「あ、の、化け物さ……」
躊躇いがちに呟く。
「化け物?」
「し、四凶だよっ。あいつ、痛がらなかったんだ」
「……まさか木刀で殴ったの?」
蘇双は眉根を寄せた。
もしや彼女の腕は――――。
少年はこくりと頷く。
「あ、あいつ……全然、痛がらなかったんだ。どうせ避けると思ってたから木刀で腕思い切り叩いたらさ、避けなくて、折れちゃったんだ。けど、オレ謝れなくて、怒鳴って、そしたら頭下げてどっかに行っちゃって……全然、痛そうじゃなかった」
「あの腕……それで」
気の所為ではなかったのだ。
蘇双は少年の頭を軽く叩くと、木刀をすぐに鍛錬場に返すよう言って再び村を出た。彼女と会った場所まで登り、記憶を手繰りながら山道を登っていく。
このまま登っていけば、清流がある。世平も良く釣りに来る場所だ。そう言えば、あの四凶も良く世平に付き合って釣りに行っていた。どうでも良い話だが、世平よりは、釣れているようだった。
清流に着くと、四凶はいた。
真顔で片腕を水に浸からせている。記憶が正しければ、浸かっているのは動かなかった腕だった筈だ。
離れた場所にいた蘇双に、しかし彼女は気付いた。暗殺一家であったからか、人の気配には敏感なようだ。世平を通じて、彼女の背後には絶対に立たないようにと言われている。
蘇双を色違いの目で捉えると、腕を出す。その手はしっかりと川魚を掴んでいた。生きが良い……いや、腕が折れていたのではなかったか。
「蘇双様」
「……何、してるの」
「……」
「……」
「……さ、魚を捕ったら、関羽様が喜ばれるかと」
今、考えた。
今の間は明らかに考えた。
「素手で穫るの?」
「穫れました」
「入れる籠は?」
「……ありません」
蘇双は溜息をつく。
「嘘をつくなら、もう少しマシなのをつきなよ。猫族の子供が君の腕を折ったって言ってたけど」
「いえ、折れていません。猫族の子供と会った覚えもございませぬ。その子供は、夢でも見たのではないでしょうか。まことに申し訳ありません。――――あっ」
頭を下げようとした瞬間、手から魚が逃げ出した。ぱしゃんと水飛沫を上げて川に戻ってしまった。
ぽかんと川を見つめていた四凶は、やがて、
「……逃げられてしまいました」
……この四凶の思考が分からない。
今まで接したことはあまり無かったので、ここまでよく分からない人物だとは思わなかった。
蘇双は溜息をついてきびすを返す。
そのまま何も言わずに下山した。
‡‡‡
その後の幽谷と言えば、蘇双がその場から離れたことに心底より安堵して大仰に吐息を漏らしていた。
「……良かった。何とかバレずに済んだわ」
片腕を見下ろし、そっと撫でる。
「……痛かった」
まだ、腕は完全に治ってはいないのだった。
●○●
骨折や内出血などは裂傷などより治りが遅い設定。水に損傷した場所が直接水に浸かるワケではないのでじんわりじんわり治ります。
そしてまだ続きます。
.
- 20 -
[*前] | [次#]
ページ:20/60
←