10.わたしだけにキスして



10.わたしだけにキスして(夏侯淵)



 何か、苛々する。
 いや、理由は分かっている。だが認めたくないのだ。


 自分が、嫉妬しているなんて。


 そんな筈がない。
 自分は、そんな感情を抱く程弱い訳ではないのだと、そう信じたい。

――――ただ見ただけだった。
 夏侯淵が女官と唇を合わせているところを。
 大方女官が夏侯淵の隙を突いて無理矢理奪ったのだろう。それも幽谷が見ていることに気付いて敢えてそうしたのだからなかなかの策士だ。夏侯淵に押し退けられた時の、勝ち誇ったような彼女の笑顔が忘れられない。

 嗚呼、身体の中がムカムカする。
 苛々を何処かにぶつけることも出来ず、ただ曹操の屋敷の中を大股に歩き回っていた。

 鍛練に出て発散させても良いが、鍛練場にいれば確実に夏侯淵がやって来る。今、彼に会ったら全速力で逃げてしまいそうだ。
 歩きつつ、幽谷は重い溜息をついた。

 こんな女々しい自分……嫌になる。


「幽谷?」

「あ、ああ……趙雲殿。如何致しましたか」


 話しかけられて立ち止まれば、趙雲は不思議そうに幽谷に歩み寄った。


「どうした? お前にしては珍しく苛立ちが出ているが」

「あなたに対しては露わにしていたと思いますが、そうですか。それは、申し訳ありません」

「いや、良いんだ。悩みがあるなら、俺で良ければ聞くぞ」


 結構です――――そう言いかけて、幽谷は口を噤んだ。少しだけ考え込んだ。
 関係の無い赤の他人に話せば、少しは苛立ちも収まるだろうか。


「少々、聞いていただいてもよろしいですか?」

「ああ」


 趙雲は笑顔で頷いた。



‡‡‡




「趙雲殿に恋仲の方がいるとして、その方が別の男と口付けをされていた時、あなたはどう思いますか?」


 欄干に並んで寄りかかり、幽谷は問いかけた。

 趙雲は驚いたように目を丸くした。それから何を思ったか心配そうに幽谷を見てくる。


「夏侯淵と何かあったのか?」

「ええ、まあ。ですが先に、問いに答えて下さい」


 促すと趙雲は謝罪して考え込んだ。深く考えなくても良いのだが、彼が答えを出すまでに時間がかかった。


「そうだな……寛大に対応したいとは思うが、恐らくはそれどころじゃなくなるだろうな。俺もまだまだ未熟だ、きっと嫉妬で周りが見えなくなる」


 どうやって取り返そうかと躍起になるだろうな。
 苦笑混じりに語る彼を流し目に見、幽谷はその言葉を脳裏で反芻(はんすう)した。

 趙雲でも嫉妬はするのかと、意外に思った。


「……で、夏侯淵が別の女性と口付けをしていたのか?」

「ええ、まあ……このことを誰かに話せば軽くなるかと思いまして」


 先に問いかけたのは、話したとて理解されるか少し不安だったからだ。
 まあ、人の良い趙雲のことだからそれでも笑ったりなどはしないだろうけれど。

 一瞬、趙雲の眉間に皺が寄った。

 幽谷はそれに気付いて訝(いぶか)った。


「趙雲殿?」

「……いや。幽谷、こういうのはどうだろうか」

「え?」


 意趣返しに、俺と浮気をしてみるのは。
 幽谷は瞠目した。


「頭は大丈夫ですか」

「ああ、俺は真面目に言っているつもりだ」


 いや、明らかにおかしい。
 普通の人間はそんなことを言うだろうか。そんな、自分から不義を犯すかだなんて……。
 冗談でも許せるものではない。


「どうだ?」

「どう、と言われても……私はそういったことをするつもりは毛頭ございませぬ」


 はっきりと拒絶すると、趙雲はあからさまに残念そうな顔をした。

 幽谷は呆れた。


「趙雲殿、話を持ちかけた私が言うのも失礼ではございますが、そのように下らないことを仰います前に、ご自身の伴侶でもお探しになっては如何ですか」

「その人生の伴侶にしたい異性は目の前にいるんだが?」


 いや、誰も『人生の』なんて付けていない。
 それに目の前にいるとは何だ。
――――自分しか、この場にはいないように思うのだが。

 ……取り敢えず、彼から距離を取った。

 が、趙雲はそれを許さず幽谷にぐっと顔を近付けてきた。
 視線が間近で交差し、幽谷はさっと青ざめる。

 これは、非常に危ないのでは――――。

 咄嗟に外套の裏に手をやった瞬間。

 顔と顔の間に、銀に光る刃が入り込んできた。

 趙雲が動きを止める。

 良く手入れされた刃は幽谷の顔を映し出した。
 難を逃れたと安堵して見上げると、そこには酷い形相の夏侯淵が趙雲を睨み付けていた。

 何だろう、こちらもこちらで危ないような気も……。


「あの、夏侯淵殿」

「貴様ぁ……まだ幽谷のことを……!」

「そう簡単に諦めはつかない。自分でも質(たち)が悪い程に入れ込んでしまったんだ、仕方がないだろう」


 直後、視界から剣が消え、夏侯淵は趙雲に斬りかかる。
 それを趙雲は危なげなく避けた。


「安心しろ、夏侯淵。幽谷は俺に気は全く無いようだ」


 苦笑混じりに彼が指差したのは幽谷の手元。しっかりと匕首が握られていた。恐らく趙雲が口を付けたりなどしてきていたら、確実に刺していた、と思う。
 ひとまず趙雲に謝罪して匕首を戻した。

 すると、ぐいと手を引かれて夏侯淵の後ろに隠されてしまう。彼は趙雲に剣を向けたままだ。
 曹操の屋敷で、将同士が剣呑でいて良いのだろうか。……いや、良くない。


「申し訳ありませんが、夏侯淵殿。武器をお収め下さいまし」

「幽谷! しかしこいつは……」

「仮にも、彼はあなたと同じ曹操軍の武将でしょう。ここで不和の騒ぎを起こしては、曹操殿や夏侯惇殿から要らぬご叱責を受けますよ」

「う……」


 途端に夏侯淵は言葉を詰まらせた。やはり曹操と夏侯惇を出すと彼は弱い。

 幽谷は細く吐息を漏らした。くるりときびすを返し、その場を歩き去る。正直、まだ夏侯淵と顔を合わせるのは辛かった。もう剣呑になることは無さそうだし、もう良いかと彼から逃げるように幽谷は早足に離れていった。


「あっ、待て幽谷!」


 夏侯淵は即座に幽谷を追いかけた。だがその前に趙雲に珍しく大きな声で呼び止められてしまう。
 振り返れば、彼に何かを言われていたようだが、声までは聞こえなかった。



‡‡‡




 歩くのと走るのでは、当然すぐに追い付かれてしまった。


「待ってくれ幽谷、さっきの女官のことで話が……」


 必死な彼は気付いているだろうか。
 必死なあまり、かなりの力で幽谷の手を圧迫している。
 幽谷が無表情なのもあるだろうが、それにしたって骨が軋んでいることくらいには気付いて欲しいものである。


「あれは……その、曹操様からの言伝を聞いていたらいきなり腕を引かれて、」

「夏侯淵殿の意思が無かったことは、見ていて分かりました」


 というか、幽谷がいたことには気付いていたのか。……いや、女官が教えたのかもしれない。彼女ならやりかねない気がする。

 そう言うと、夏侯淵は安堵して肩を下げた。

 しかし、幽谷の苛立ちはまだ消えていない。


「……あのですね、夏侯淵殿」

「な、何だ、幽谷」

「そろそろ、骨が軋んでいることに気付いていただきたいのですが」

「え? ――――あっ」


 やっと気付いた。
 彼は慌てて手を剥がし、くっきりと残った痣に眦を下げた。


「本当に、すまない。けど、本当にオレは……」


――――この夏侯淵という男は、卑怯だと思う。
 そんな叱られた犬のような顔をされてしまっては、自分の苛立ちがどうでも良くなってしまうではないか。
 幽谷は細く吐息を漏らし、


「では、もう二度と、私以外の者とあのようなことはなさらぬようにお約束いただけますか」


 夏侯淵はがばっと顔を上げて何度も頷いた。

 その姿を可愛らしいと思うから、嫉妬する自分も段々と馬鹿らしくなるのだ。
 幽谷は安堵したように笑う夏侯淵に微笑みかけ、懐から鉄笛を取り出した。


「……ですが、許す代わりに一つだけ」


 ばき。
 ばきばき。
 幽谷は夏侯淵に見せつけるように鉄笛を素手で握り、折った。


「一発殴らせてもらえないかしら」


 さすがに、何もせずに許す訳にはいかない。

 にこやかに言い放った彼女に、一転、夏侯淵の顔がさっと青ざめたのは言うまでもない。



●○●

 鉄笛はあまり使わないので壊しても特に困らないのです。
 あと夏侯淵に叱られた犬のような顔をして欲しいのは他でもない私です。

 ちなみに趙雲が夏侯淵を呼び止めて夢主が見てたんだと教えたのでした。ついでに『俺も隙が出来れば本気で奪うぞ』的な宣戦布告もしています。



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